若きスイマーたちが、日本代表をかけて競っている。
4年前、20歳でトップに躍り出た子がすでに老いて、今はたちの子に首位の座を明け渡している。
筋力は20前にピークがきて、あとは鍛えても劣えるほうが早いということか?持久力はともかく、瞬発力を要する筋肉はどうもそのような具合になっているらしい。
24,5歳で引退に追い込まれる現実に人生の悲哀を感じながら、執拗におこなわれる敗者へのインタビューを聞くはめになった。
何気なく聞いているとどうも様子がおかしい。
敗れてなお、すっきりとすがすがしい気持ちだという。
そんなはずはないと、テレビ画面をよくみると目は赤く潤んでいる。
人前でくやしいと言ってはいけない世界にこの子たちは住んでいるのだと納得した。
スポーツマンはすがすがしいのを第1とするという教育のたまものであろうか。
考えてみれば我々も子供の頃、試合に負けてなお、相手に拍手しエールを送るのを美徳と教わった。
また人になにかを勧められても、いったん断るのが礼儀であると教育された。
遠慮という気配りに過大な評価が与えられ、遠慮しないものを無遠慮とした。
がこれは間違っている。
遠慮しないもののなかには、無知、無粋、不遜まで多様な無遠慮が含まれるが、逆にゆきとどいた配慮というのもある。
遠慮がかえって相手を困惑させてはならぬという配慮である。
これに気付いた若者が、困惑した大人に向かって、ざあまみろと胸をはっている。
遠慮が思ったほど美徳でないと気付いた大人は、教育すべき子供たちを前に戸惑いを隠せない。
私情を殺し我慢せねばならぬときもある。
いやな役というものである。
是非あなたにといわれて、逃げ場を模索するがやむなく観念して、建前上、ありがたくお引き受けいたしますという場合である。
世間のしがらみというやつで本音とはかけ離れているが処世上いたしかたない。
かつて秀吉は、周囲があとずさりするような難題をみずから望んで引き受け、信長に”大気者め”といわせて寵を得ていった。
建前は忠節であり、本音が栄達にあったのはいうまでもない。
いったい我々がものごとを本音と建前に分けて平然と過ごすようになったのは、いつの頃からであろうか?本音を言わぬのは、はっきり言ったのでは付き合いがしにくくなるからだろう。
それはナイーブで、傷つきやすいからか? 嫉妬深いからか? 栄達のためか? いい人だと思われたいというナルシシズムか?どうも実情は複雑のようだ。
皇室は有史以来、建前で動いている。
本音をいえる空間は限りなく狭いであろう。
このユニークな閉鎖社会にはマスコミも用心して、一歩も余分に踏み込まぬよう自粛している。
二重橋の架かった皇居の風景を見ながら、江戸時代、針の穴ほどの小窓から日本を眺めていた長崎の出島を思い出した。
身も心も自由にならぬという点で、そこに住むひとたちには共通するおもいがあるに違いない。
米国に留学した友人が、研究室の仲間がお互い友好的に仕事を分担しながら進めていくのに感心していたところ、仲間の一人が席をはずすや、突然その人の中傷をはじめたのに驚いた。
しかも彼が席に戻ると、何事もなかったように仲良く仕事を始めたという。
研究者間の疑心暗鬼は想像以上で、大事な情報は決して仲間に漏らさない反面、相手をほめて友好を装う徹底ぶりは日本の比ではないと嘆息していた。
本音と建前は世の東西を問わぬらしい。