私たちは野山に出かけ、川のせせらぎや鳥のさえずりを聞くと、なんと自然は美しく調和に富んでいると心豊かになるのであるが、本当は事実から目をそらしているだけで、自然がそんな善意で動いていないことは、誰もが承知している。
食物連鎖で植物は昆虫に、昆虫は小動物に、小動物は猛禽類に食べられ、その遺骸はバクテリアに分解される熾烈な世界だと知りながらも、弱肉強食の果ての姿に、私たちはみとれている。
かつてダーウインは、敵を倒して生き残ろうとする生存競争と、敵の目から免れて生き残ろうとする自然淘汰が進化の原動力になっていると喝破した。
地上には1000万種もの生物が棲息していると言われるが、みんなが同じ食べ物を欲しがったら、死闘を繰り返す結果、絶滅する種が後を絶たないだろう。
馬はニンジンを、熊はサケやハチミツを好むとはいうが、なければないで大概のものは気にせず食べる。人もまたしかりである。
実際、食物連鎖は単純な垂直関係どころか、連鎖網という華厳世界のごとき複雑さを呈している。
福岡伸一氏によれば、アゲハ蝶はミカンかサンショウの葉、黄揚羽はパセリ、人参の葉、ジャコウアゲハはウマノスズクサしか食べず、もしこれがないときは、ほかのものには手をつけず、餓死するという。
痛ましいような話だが、贅沢だなどと非難するわけにはいかない。
じゃあ、お前さん、ゴキブリや蜘蛛を食えるかねといわれれば、納得してもらえるだろう。
蜘蛛が食えない理由を言えといわれても、答えようがないのだ。誰だって何でも食えるというわけにはいかない。そのおかげで、生態系は均衡が保たれているともいえる。
その均衡についてである。
生態系の均衡
グルタミン合成酵素を多く有する大腸菌(グルタミンは生き残りに必須)とそれをさほど持たない大腸菌を比べれば、合成酵素を多くもつものほど生命力は強い。
大阪大学(生命機能研究科)の四方 哲也教授は、遺伝子改変をおこなって、程度の異なるグルタミン合成酵素をもつ大腸菌を作成し、同じシャーレで培養してみた。
すると、酵素を多く有する大腸菌で溢れかえるとの予想に反し、どのような条件下でも、酵素をあまりもたない大腸菌が必ず一定量残ることに気付いた。
つまり、進化論の自然淘汰の法則には従ってないのである。
よくみると、せっかくグルタミンを合成しても、それを取り込もうとしないか、取り損ねているかのような大腸菌がおり、そのおこぼれを貰ってほそぼそと生きている弱々しい大腸菌がいる。
実験を繰り返しても、結果は同じであったという。
自然淘汰の法則にしたがわず、健気に生きている微妙な均衡が興味深い。
我々人間世界もまた、大腸菌の世界と五十歩百歩ではないか。
かつて松下幸之助氏が、数万人の従業員のうち、本当に会社を引っ張ってくれるているのは一部の職員で、大半は害にも益にもなりません。逆に一割ほどは、怠慢で会社の足を引っ張るようなものがおります。
そこで、この有害な連中を解雇したらどんなに素晴らしい会社になるかというと、まったく何も変わらないということを言っている。新たに落ちこぼれグループが出来上がって、会社の足を引っ張るようになるというのだ。
集団は、あるバランスをもって棲み分けしないと落ち着かないようにできているのかもしれない。弱者が自然淘汰されればすむというわけにはいかないようだ。
熱力学の用語にエントロピー(乱雑さ)増大の法則というのがある。
秩序あるものは時間とともに崩壊するという意で、仏教の無常観(諸行無常)を感じさせる。しかし、あらゆる生命体は、その法則に抗いながら生きているようにみえる。
われわれは、胃酸で食物中の雑菌を死滅させ、肝臓で栄養素を合成したのち全身に運搬し、老廃物は腎臓から排泄して生きている。
また、免疫細胞で外敵から身を守り、老化や損傷、あるいはコピーミスをおかした細胞を、絶え間なく補修しながら、なんとか収支決算を合わせている。
それでもエントロピー増大に抗して損傷修復が追いつかなくなったとき、ついに死にいたる。
私たちのからだも、絶え間なく、生への大きなうねりとそれを阻止しようとする動きが、せめぎ合った微妙なバランスのうえに、息づいているといえるだろう。