今では細川ガラシャが通り名となっているが、それは明治維新、わが国でキリスト教が公認されて以来である。
江戸の終わりまでは細川たま(珠、玉)と呼ばれており、母は明智光秀の後添いであった。
父・明智光秀の苦労
父光秀は美濃の斎藤道三に仕えていたが、道三が息子・義龍との戦いに敗れて自害すると、つてを頼って越前の朝倉義景の食客となった。そこで珠が生まれたとされる。
食客は誰でもなれるものではない。地位、才能があり、朝倉氏に提言できる何ものかをもっていなければならない。光秀にそれ相応の才があったとおもえる。
当時、越前で同じ食客身分であった足利義昭と親密になり、彼を織田信長に引き合わせると同時に越前を去り、自ら信長の配下となった。
信長の行動はじつに素早い。わずか2か月後には義昭を奉じて入京し、室町幕府15代将軍に据えたのである。
無論、義昭を利用して、諸大名を屈服させるのが目的であるから、必要なくなると、信長に京を追い出され、室町幕府は消滅する。
信長という男は、部下の出自よりも仕事ができるかどうかを重視し、あくまで結果を出せたか否かで評価した。ことのほか光秀は、信長の意を察して行動することに敏で、その点、秀吉と双璧であった。
比叡山焼き討ちも光秀主導で行われ、そののち、信長より近江の滋賀郡を与えられ、坂本に築城して城主となった。この異例の出世に、内部からやっかみが絶えなかったという。
光秀の謀反
珠15歳のとき、信長の勧めで、丹後の宮津城主・細川藤孝の嫡男・細川忠興(15歳)に嫁いだ。夫・忠興とは夫婦仲よく、3男2女に恵まれた。
しかし珠が嫁いで4年目、父光秀が謀反をおこし、本能寺で信長を殺害する。
部下を道具としか考えていなかった信長は、部下に逆襲されるという発想がなかった分、無防備であった。
このままでは、信長に潰されると思ったか、自滅するとおもったか、光秀にとって切羽詰まった挙句の決行であったろう。
光秀は細川藤孝、忠興父子にも応援を頼んだが、体よく断られ、山崎の合戦で秀吉に敗れた。
細川たまから細川ガラシャへ
山崎の合戦のあと、逆賊となった光秀の娘・珠は、離縁もやむなしの状況であったが、義父幽斎の計らいで2年間、丹後の味土野に身を隠した。
その後秀吉の計らいもあり、大阪の家に戻る許可を得たものの、珠は謀反人の娘として鬱屈した日々を送っていた。丁度そのころ、夫・忠興が高山右近から聞いたというキリスト教の話しに、生きる手がかりが得られるかもしれないと、かすかな期待を寄せるようになった。
そして夫が朝鮮出兵したすきに、お忍びで教会へ出かけてみた。そこで見た神父の説話は、珠の予想をはるかに超えた未知の世界であり、思わず珠はふつふつと湧き上がる疑問を神父に投げかけたのである。
それは神父をして、今まで見たこともない賢明な日本人と言わしめるほど、鋭い質問であった。そして直ちに洗礼を受けたいという珠を、いったん押しとどめて帰宅させたのであった。
しかし珠の危惧したとおり、監視の目が厳しく、引き続き教会へ通うのは困難であった。やむなく珠は侍女たちを通じ、教会から送られた書物を読むことによって、キリスト信仰を深めていった。そしてほどなくイエズス会神父の計らいにより、自宅で洗礼をうけた。洗礼名はガラシャ(ラテン語で神の恵み)といった。
夫・忠興の怒り
当初、ガラシャは、秀吉がバテレン追放令を発布したのを知ったうえで洗礼をうけたため、夫には内緒にしていた。しかし忠興はこの事実を知ると激怒し、ガラシャに改宗を迫り、側室をもつと脅迫した。
このことが秀吉の耳に入れば逆鱗に触れ、容易なことでは許されないと恐懼したためである。
ガラシャはもともと気性が激しく、怒りっぽい性格であったが、洗礼をうけてからは見違えるように従順で、忍耐強くなった。
それでも夫の冷たい仕打ちに耐えかね、宣教師に離婚したいと打ち明けたが、「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」といって説諭された。
1598年、秀吉が死去すると、藤孝・忠興父子は素早く徳川家康によしみを通じ、石田三成と対峙した。
家康はキリスト教の普及よりもポルトガル、スペインと交易する利点を優先し、キリスト教には黙認の立場をとったため、ガラシャはひと時の平穏を得たといえる。
従容として死に赴く
ところが時代は風雲急を告げる。忠興は家康に従い上杉征伐に出陣となった。忠興は大阪を出発するにあたり、「留守中、妻の名誉に危険が生じれば、妻を殺害したのち全員自決するように」と、家老以下に厳命した。これは当時の武家では普通にみられる光景であったという。
危惧した通り、石田三成は挙兵するとともに、大阪にいる徳川方武将の奥方を人質にとろうと目論んだ。
そこで、三成はまず使者を細川邸に派遣したが、ガラシャはこれを無視。拒絶された三成は兵を押し立て、細川屋敷を包囲した。
すでにガラシャは、この事態を予測していた。クリスチャンとして心の安寧を得ていた彼女は、従容として死に赴く覚悟であった。
ガラシャは動揺する侍女たちに、「夫が命じている通り、自分だけが死ぬのでよい」と言って、女性をすべて屋敷から逃亡させた。
そのうえで、キリスト教では自殺が禁じられているため、家老に胸を一突きさせて絶命した。残ったものも屋敷に火をつけ、自刃して果てた。
享年36歳、ガラシャ悲運の死であった。
これに驚いた石田三成は、世間の風評を恐れ、ただちにこの人質作戦を中止した。
その後、関ケ原の戦いを制して帰宅した細川忠興は、妻の自決を深く悼みオルガンティノ神父に依頼して、盛大にガラシャの教会葬を行った。
ガラシャの長男・忠隆
ガラシャには3人の息子がいた。
長男忠隆と妻千世との夫婦仲は順風満帆であったが、忠興はガラシャが自害した際、千世が屋敷を逃げ出したことに立腹し、忠隆に離縁するよう命じたのである。しかしそれはガラシャの命に従ったまでと、忠隆は千世をかばったため、忠興は忠隆を追放、廃嫡処分とした。
憤慨した忠隆は千世と長男を連れ、祖父・細川幽斎を頼って京都へ行き剃髪、休夢と号して隠居した。
忠興の理不尽ともいえるこの処置は、千世が前田利家の娘であったため、細川、前田両家の接近を警戒する家康に配慮したためといわれる。
ガラシャの次男・興秋
長男忠隆の廃嫡により、当然次男の細川興秋が家督を相続するとおもわれたが、現実にはそうはならなかった。一時叔父の家に養子に出されていたからとも、忠隆の勘当をめぐって父と言い争ったからともいわれるが、忠興は江戸で人質生活を送る三男忠利を跡継ぎに指名し、かわりに興秋に江戸へ行くよう申し伝えた。
人質とはいえ忠利は江戸住まいしているうち、人並み外れた律義者として、将軍秀忠や幕閣の覚えが殊の外よかった。22歳のときには、秀忠の養女・千代姫をもらいうけている。これをみて忠興は安全策をとったのではといわれる。
次男興秋は屈辱感に苛まれ、江戸へ向かう途中、出奔して剃髪し、京の祖父のもとで兄とともに過ごした。
家督を弟に譲られたのが余程口惜しかったのか、のちに大阪の陣が始まると、興秋は父に逆らって大坂方につき、精一杯の抵抗をしてみせた。
このため、敗戦後、家康の目を気にした父忠興の命をうけ、切腹して果てた。
徳川氏に対する忠興の過剰なまでの気遣いが、長男と次男の運命を狂わせたともいえる。なんともやるせない話しである。
三男・忠利が家督を継ぐ
34で家督を継いだ忠利もまた、ふたりの兄を差し置き自分が嫡男になったことを気に病んでいた。
しかし、父の忠興がねらったとおり、幕府の細川家に対する信任は絶大であった。
忠利は長年の江戸生活で、有力な旗本たちと昵懇になり、将軍秀忠、家光親子にも心許される存在であった。
さらに大奥を牛耳った春日局も、忠利には優しかった。彼女の父がもと明智光秀の重臣であり、忠利が光秀の子・ガラシャの息子だったことによる。
忠利は外様でありながら、九州における幕府代理人として位置づけられたといえる。忠利も忠実にこれに応えた。
そして忠利47歳のとき、熊本の加藤忠広(清正の嫡子)がこれという理由もなく改易になったニュースが全国を席巻した。ほどなく忠利のもとに、肥後熊本藩へ移るよう、幕命が下った。40万石から54万石への加増がなんの武功もなく、与えられたのである。悲運の兄にくらべ、忠利にはどこまでも運のよさが付きまとう。
忠利の律義さ
しかし全国の諸侯から妬みを買うのは必至であった。それより、清正以来、加藤家に対する地元民の追慕は半端でない。ましてお上による理不尽な取り潰しである。後から入るものにとっては、どうにも具合が悪い。下手をすると、暴動を起こされるかもしれぬ。
忠利は考えあぐねた末に、民衆の見守る中、行列の先頭に清正の位牌を高々と掲げて熊本城に向かった。そしていったん城門前で下馬し、「本日より肥後一国をお預かりいたします」と頭を下げ、清正の菩提寺に向かって手を合わせたという。
さらに、清正に遠慮して本丸には住まず、近くの花畑屋敷に居住して民衆の憤懣を抑えた。
幼少時の忠利は病弱で、母・ガラシャ心痛の種であったというが、長じて武芸に精進し、柳生宗矩門下で新陰流の使い手といわれるまでになった。
また、忠利54歳のとき、宮本武蔵(当時56歳)を客分として、破格の待遇で迎えた。このため、多くの藩士が武蔵の門下に入り、腕を磨いたといわれる。
翌年、忠利が急死したのちもなお武蔵は厚遇され、62で他界するまで熊本に留まったという。
忠利は丁寧な統治に心がけ、幕閣中枢の年寄衆とのパイプを生かして、中央の情報をいち早く入手し、藩政に反映させた。
こうして幕府の期待通り、熊本藩は九州の要として周囲に目を光らせるようになった。
しかし忠利は父忠興のような大胆不敵をもちあわせておらず、神経がこまやかであった分ストレスも多く、享年55で父に先んじて他界した。その死の報に、将軍家光は「越中早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と言って慨嘆したと言われる。
ガラシャの血統は途絶える
その後しばらくは忠利の子孫が嫡流家として続いたが、若くして他界した7代藩主・細川治年には男子がいなかった。
ここにおいて、熊本藩主の座を保ってきたガラシャの血統は途絶えた。
やむなく、忠利の異母弟の系統から細川斉茲(なりしげ)を養子に迎え、8代藩主とした。以後は斉茲の子孫が藩主の座を引き継ぐこととなった。
ちなみに元総理大臣・細川護煕氏はその斉茲の末裔であって、細川ガラシャの血は受け継いでいない。