世界史ひとこま/SEKAISI

唐の都・長安

唐の都・長安

唐の都・長安

占領の危機

太平洋戦争のあと我が国が米軍の占領下におかれたことは記憶に新しいが、そのほかに2度、我が国は占領の危機に陥ったことがある。

一度目は662年、白村江の戦いにおける敗戦、もう一度は元の大軍に襲われた元寇の役である。

白村江の敗戦のあと、唐の倭国侵攻がまことしやかに囁かれ、天智天皇は慌ただしく対馬や大宰府の水城、瀬戸内海沿いの長門、屋島、岡山に砦を築き、北部九州沿岸に防人を配備した。さらに都を難波から内陸の近江京へ移し、防衛体制を整えた。

一方では、恐る恐る唐との関係修復を摸索し、冷や汗をかきながら遣唐使の派遣を再開した。この敗戦交渉がうまくいかなければ、圧倒的な唐軍の侵攻を許し、国家危機に陥るところであった。

かくして天智、天武の兄弟天皇は、何をおいても、唐を範とする国家体制づくりが急務と考え、律令国家の建設に邁進したのである。こうして701年、大宝律令が制定され、わが国は倭国から日本と国号を変え、中央集権国家としての体をなすに至ったのである。

しばらく途絶えた遣唐使もこの後、10数年から20年に一度、200年以上にわたり派遣されることになる。

遣唐使派遣は一度に100名から500名という大人数であり、出向く者にとっては、おとぎの国へ行くほどの響きがある。留学生として、何とかその中に潜り込ませてもらえないかと気をもんだ若者は少なくなかったであろう。

世界最大の都、長安

なにしろ唐の都長安は人口100万を超える世界最大の都である。

この時代、これほどの人口が1都市に集中するにはそれなりの理由がある。

古来、中国には中華思想があって、世界の中心という自負がある。したがってその華を慕って集まってくる周辺民族には、礼を尽くしてもてなすという精神がある。このありがたい慣習のせいで、わが国は滅亡を免れたといってよい。

このため、長安には北方、西域などからあまたの胡人(こじん)が流入した。

胡人とは異民族に対する蔑称であるが、ペルシャ人といわれるイラン人を中心に、ソグド人、トルコ人、ウイグル人、インド人など多彩である。彼らは世界各地の文物、慣習を持ちこみ、中国人の歓心を買った。

長安の東には、王や貴族が住み、まわりに妓楼のある歓楽街が軒を並べた。一方、西側は住民街で、街中に飲食店や商店が溢れた。

歓楽街には、エキゾチックな顔だちのペルシャ女が営む酒場が軒を連ねていた。

なかにはカウンターがあって客と女主人を隔てている。背後の壁には酒樽が陳列され、客の要望に応じてふるまわれる。

その光景は今日のバー、スナックと何ら変わらない。

遣唐使船に揺られ決死の思いで辿り着いた使者たちの目に、長安の殷賑はどのように映ったであろうか。なにしろその自由な空気である。

律令制でがんじがらめになった我が国とくらべ、この街には国境をまたいで出入りする人々が溢れ、自由に商売をしている。宗教も仏教、儒教、キリスト教が入り乱れ、信仰は自由である。

このように、唐は人も物も文化も分け隔てなく、自由に受け容れた。たとえ外国人であろうと、才能あるものは重用した。

その懐の深さが唐を世界最大の都にしたといってよい。

やや衰えの目だった玄宗皇帝の御世でも、軍のトップに外国人を指名したり、文官にも外国人を重用した。

このままここに留まりたい。そう願った者もいたはずである。

事実、その恩恵に浴したものがいる。

阿倍仲麻呂

かの阿倍仲麻呂は若干20歳、留学生として派遣された遣唐使の一員であった。

試しに受けた科挙に合格し、そのまま唐にとどまった。図書を扱う官吏となり、長官にまで登りつめ、王維、李白らとも交流があった。

一度は帰国をしようとしたが船が難破したため帰国を断念し、鎮南都護、安南節度使を経て、かの地で73の生涯を終えた。

仲麻呂と親交のあった李白は無類の酒豪である。歓楽街に繰り出し、西域から来た青い目の美女に酒を注がれ、酩酊した。

君は花のように美しく、春風に笑い、薄ものの衣を翻す。今ここで酔わずにいったいどこに帰ろうというのだと独吟した。

 琴奏龍門之綠桐  琴は奏す 龍門の綠桐
玉壺美酒清若空  玉壺の美酒 清きこと空の若し
催弦拂柱與君飲  弦を催し柱を拂って君と飲む
看朱成碧顏始紅  朱を看て碧と成し顏始めて紅なり
胡姫貌如花    胡姫は貌(かんばせ)花の如く
當櫨笑春風    櫨に當たりて春風に笑ふ
笑春風舞羅衣   春風に笑ひ 羅衣を舞はしむ
君今不醉欲安歸  君今醉はずしていづくにか歸らんと欲す

唐の文化に浸った若者たちの歓喜と嘆息が聞こえてきそうである。

しかし、かの大都市・長安も、膨大な人口を養うための食料供給に頭を悩ませていた。

唐の全盛期には、豊かな食糧庫である江南から、運河を利用した大量輸送で命脈を保っていたが、安史の乱以後、政治が不安定になり運河が遮られると、途端に窮した。

かくして唐の滅亡とともに、後梁を立ち上げた朱全忠によって都が開封に移されると、ふたたび長安が都に返り咲くことはなかった。

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