たとえばバチカンでサンピエトロ大聖堂やシスティーナ礼拝堂を見上げた時に感じるカトリック世界への畏怖と、東大寺大仏を見上げたときの仏教世界への畏怖は、設計を命じた者の意図が似ているだけに共通した感慨を覚える。
屈伏しないものを自分の世界に引き入れるには、口先で唱えるよりも、壮大な世界を見せつけるに限る。彼らはきっとそう考えたにちがいない。
カトリックはプロテスタントへの優位を誇示しなければならなかったし、聖武天皇は、地方の敵対勢力のみならず、強大な軍事力をもつ渤海・新羅・唐に対し、大和政権の存在感を示す必要があった。
大仏建立には当時の人口の半数にあたる250万人が動員されたという。
とはいえ、その政権基盤は誠に脆弱で、挙国一致で富国強兵を急がねばならなかった。
聖武天皇と華厳経
そこで聖武天皇が選んだのは華厳経である。
“万物はお互いのおかげで生かされている”という華厳経の力をもって人心を治め、律令制でもって政治をおこなおうとしたのである。無論中国からの輸入である。
華厳経では、万物は繋がり合っており、無数のネットワークを形成しているという。
それだけではない。このネットワークを宝珠の網に例え、網の結び目に無数の宝珠があり、そのうちどの宝珠を覘いてみても、すべての宝珠が写し込まれているという。
世に言う“一即一切、一切即一”であり、“一即多、多即一”ともいう。
また、自分を絶対的な存在と考えず、繋がり合った因縁のなかに現れたものにすぎないと客観的にとらえ、自分と周りとの敷居を取り払って、宇宙と同化するという、難解な世界である。ほとんど哲学的世界といってよい。
かくのごとく仏教は無神論であり、啓示宗教でもない。解脱をめざす哲学といった感がある。
当時の日本人にこれが理解されたとは思えないが、そのエッセンスである“すべてのものはお互いのおかげによって生かされている”という思想は、以後、日本人の思想の基礎となった。
平城京で聖武天皇が目指した方向は、皮肉にも国家公務員である大寺院の仏教徒たちによって阻止された。
律令制がもろくも崩壊し、寺院が荘園を所有すると同時に、政治に直接介入してきたからである。