学生達をみると、昔も今も、ガリ勉してないふりをしながら、陰でこっそり勉強するのが常である。
できることなら、「努力しないのにできる奴」といわれたい。何といってもカッコいい。学生にとっては憧れである。
ところでこの風潮、アメリカでも全く同じ。憧れは世の東西を問わないようである。
しかし学生は学生で、この事実をうすうす知っていて、じっと相手を見ている。
そのうえで、努力しないのに優秀なものには観念するが、ガリ勉に対しては、自分だってやれば負けないという妬みを捨てきれない。
したがって友人から、「ガリ勉した苦労人」などとおだてられるのは本意でない。
だが学校を卒業して世に出ると、話しは一変する。
努力する姿
職場に入ると、努力する姿を上司・同僚に見せることが評価につながるから不思議である。それが人並み外れた努力ともなれば尚更である。
もし良い結果が得られなくても、一定の評価は得られる。
その点、日本社会はまだまだ寛容なのだ。
さらに、この努力がさまざまな苦節を乗り越えて結実すると、もはや崇拝に近くなる。
我が国において、苦労人にたいする尊敬は尋常でない。
苦労人という言葉を聞いただけで、当人を見る前からすでに敬愛の眼差しである。
そのうえ、われわれ日本人はこの手の苦労話しがたまらないのである。
苦労は買ってでもする
戦後、国民総苦労人の時代を経験した世代にとって、苦労は買ってでもするものなのである。
すなわち、ひとは額に汗してコツコツ努力した結果、成功すべきであり、汗もかかずに得た成功には天罰が下るという意気込みである。
それはもはや信念といえる。したがって金融バブルの億万長者には、まことに手厳しい。
家庭で異論が飛び交うのは、育った時代の刷り込みの違いによる。若い世代に苦労を買うという発想はない。
したがって、苦労など買って一体何を得ることがあるのかという時点で、世代の対立は解けない。
苦労は経験するもので、解説できるものではないということだ。
苦労人にガミガミいわれるくらいなら、自分でやったほうがましという若者達に、さほど苦労を苦にしているふうはない。
評価されない苦労
一方、欧米では、我が国ほど苦労そのものを評価しない。
苦労したか、しなかったかは二の次で、いかなる結果を出したかが評価基準となる。
実にクールである。そのことは我が国の若き世代はすでに了解ずみである。近年、わが国でも結果重視に評価基準を切り替えつつあるからだ。
見渡せば、世には自称”苦労人”があふれている。
だが、苦労人と信ずるに足る人を見ていると、そもそも自分を苦労人と思っていない。
他人に苦労を押し付けることもない。また例外なく、現状の自分に満足していない。
いつも次のステップを追い求めているという特徴があるようだ。
真に苦労人というものは、みずから自分の苦労は語らないものである。