我が国は直接大陸の利害が及ぶことのない孤島である。このためこちらから手をださなければ、容易に外から攻められることはない。
しかし、2度だけ手を出したことがある。一度目は天智天皇、2度目は太閤秀吉である。
663年、天智天皇は百済の要請に応じ、4万の軍団を白村江に送ったのである。ところが唐軍13万、新羅軍5万の連合軍に返り討ちにされ、逆に日本侵攻の危機に陥った。
ほうほうのていで逃げ帰った天智天皇は、唐の攻撃に怯え、都を難波から近江に移し息を潜めていたが、幸い攻撃されずにすんだ。沙汰止みになったのは、唐が新羅と険悪になりこれを滅亡させたため、日本へ派兵する余力が残っていなかったためである。
逆に攻められたことも2度ある。1度目はモンゴル帝国の元、2度目は太平洋戦争末期のアメリカ軍である。
ここでは史上最強といわれたモンゴル軍に立ち向かった、若き日本のリーダー北条時宗を採りあげてみたい。
北条時宗
1274年、モンゴル皇帝フビライは目障りな南宋を孤立させる目的で、南宋と親交のあった日本を攻撃することにした。
もともと彼は、マルコポーロの東方見聞録から日本は黄金の国と聞き及んでおり、大いに気をそそられていたのである。
これを迎え撃つのは、若干18歳の鎌倉8代執権・北条時宗である。
北条氏も8代目になると、すっかり帝王然としており、少年とはいえ日本に亡命してきた南宋の禅僧からレクチュアーをうけ、大陸事情を熟知している。蘭渓道隆亡き後は、無学祖元らが彼のブレーンとなっている。
文永10年(1273年)、時宗は高圧的な文書を携えたモンゴルの使者を斬首したのち、ただちに北九州防塁の設置にとりかかった。
北条氏が武力政権であるかぎり、威嚇に対して恭順するなどありえない。すでに時宗は、蒙古軍による占領地・高麗での乱行の数々を聞き及んでいる。
安達泰盛や平頼綱ら重臣は、若い時宗に断固たる対応を勧めたはずである。
さらに禅僧の多くは、蒙古に対し祖国を奪われた怨念がある。彼の周囲は強攻策で固まっていたといえる。
とはいえ、最終決定を下す時宗にとっては、勝利の目算が立たぬ不安な日々であったろう。
翌年、モンゴル軍は4万の兵で博多に攻め込んできた。鎧兜で一騎打ちを挑む日本軍は、軽装で集団移動するモンゴル軍に翻弄され太宰府まで退いた。
さらに「てつほう」なる大砲は、殺傷力はさほどにないがその爆発音はすさまじく、鎌倉武士を威嚇するのに十分であった。
ところが、夜間船に引き上げたモンゴル軍の船団に偶然暴風雨が襲ったため、モンゴル軍は大損害を受け、朝鮮へと撤退した。
ふたたびモンゴルからの攻撃
このため、1281年、モンゴルは満を持して二度目の攻撃を仕掛けてきた。
すでに高麗は30年間抵抗した末に滅ぼされ、ついで南宋も滅亡している。ならば、もはや日本を攻める大義はないはずである。しかし、フビライはこれで手打ちにはしなかった。
征服した高麗から4万、南宋からは10万の軍勢を擁し、攻め込んできたのである。
当然それ相応の迎撃準備が必要で、すでに時宗は文永の役で捕囚した将軍からモンゴル軍の軍略を聞き出し、北九州の海岸に石築地(いしついじ)という防塁、水路を築いて、攻撃に備えていた。
いきなり14万という想像を絶する敵が押し寄せたのである。モンゴルの執念を垣間見る思いがする。
見渡す限り海上を埋め尽くした軍船に、迎え撃つ日本軍は震え上がったに違いない。
ところが7月、遅れてきた江南軍が高麗軍に合流し、攻撃準備している最中に、またしても台風が船団を襲った。モンゴル船団は4000隻が沈没し、兵士10万人が海に消えたという。
モンゴル軍は南宋の捕虜に軍船を建造させたため、手抜きが多く、脆弱であったのも我が国に幸いした。
日本軍は濡れ手で粟の勝利をものにしたのである。
しかし2度にわたるモンゴル帝国の急襲を退けたことで、我が国には一朝、事あれば神風が吹いて外敵の侵入を阻止するという神国思想が芽生えることとなった。
なにはともあれ、北条時宗は目前の脅威を取り払うことに成功した。しかし、彼には頭の痛い問題が残ることになった。
第1にこの戦いには戦利品がない。勝ったといっても報奨金が出せないのである。しかも主戦力の関東武士団にとって、北九州が侵されることはさほど大きな問題ではない。
遠い九州へ出かけ、我が身を削ってまで戦利品がない戦いに参加する気にはなれない。モンゴルと戦うのはもう沢山という厭戦気分が蔓延していた。
しかし時宗としては、さらなる蒙古軍来襲が否定できないため、北九州に大規模な防塁を築く必要があり、余分の出費に頭を悩ませた。
資金繰りに窮した時宗は、高麗を占領して褒賞金に当てようと模索していたともいわれる。
さらに時宗は、この戦いで借金した武士を救済するため徳政令を出し、借金のかたにとられた土地を無償で返却させたため、武士に金を貸す者がいなくなり、かえって多くの武士は困窮する羽目になった。
こうして蒙古軍に勝利したとはいうものの、武士の幕府に対する信頼感は薄まらざるを得なかった。
しかし一方で、幕府に好都合な結果も生んだ。すなわち、それまで西日本には依然として朝廷勢力が根強く残っていた。しかし幕府は国難といって全国の寺社や朝廷領の武士をかり集め、そのまま幕府勢力に組み込んでしまったのである。
さらには、寺社仏閣の土地を根こそぎ取り上げて幕府領とし、朝廷を丸裸にしてしまった。したがってこれを契機に、鎌倉幕府は名実ともに全国支配を確立したといえよう。
ともあれ時宗は疲れ果てた。7年もの間、極度の緊張にさいなまれ、過剰のアドレナリンが出続けたに違いない。ひとはあまりの緊張にさらされると、そのあと脱力感に襲われ気力を失い、火が消え入るように生涯を終えることがある。
モンゴル軍が去って3年、時宗はすでに病床にあったといわれるが、34という若さでこの世を去った。結核や心臓病が死因ではと推測されているが、いずれ蒙古襲来のストレスが寿命を縮めたことは想像に難くない。
遺体は無学祖元の開山による臨済宗・円覚寺に葬られた。