藤原氏は大化の改新の立役者である中臣鎌足を始祖とする。
もともと中臣氏は代々、神事・祭祀を司る宮廷貴族であった。
中臣鎌足は死に望んで天智天皇より藤原姓を賜り、息子の不比等からは中臣氏でなく藤原氏を名乗るようになった。
ちなみに藤原の名は鎌足の故郷の地名・藤原(のちの藤原京、今の 橿原市あたり)によるとされる。
ただし鎌足の直系以外はそのまま中臣氏を称し、今までどおり神事・祭祀職を世襲した。
なにしろ藤原氏は1200年もの長きにわたって、朝廷で隠然たる勢力を保持した稀有の一族である。
奈良時代
奈良時代には、不比等の画策により、娘の京子を軽皇子(文武天皇)の妃にすることに成功した。
京子が首皇子(後の聖武天皇)を産み、さらに聖武天皇にも娘の光明子(後の光明皇后)を後宮として入れ、天皇との姻戚関係を確立した。
不比等の死後、4人の息子たちが長屋王の変をおこし、妹である光明子を光明皇后とすることに成功した。
藤原四兄弟はこののち、南家・北家・式家・京家の四家にわかれて四家の祖となり、政治の実権を握ることとなった。
ところが、天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで夭折し、さらに藤原仲麻呂の乱により、藤原氏はいったん朝廷から軽んじられることになる。
しかしその後、藤原百川や藤原永手の尽力しより、かろうじて再興に成功した。
平安時代
平安時代の初めには、政争や一族の反乱で、京家、南家、式家が衰退して北家のみが勢力を増し、平安中期に入ると、藤原北家は皇室に嫁がせた娘に子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握る摂関政治を確立した。
つまり摂関政治とは、天皇が幼いあいだは摂政として、成人したあとは関白として、実権をほしいままにする政治手法である。当時の夫婦は一緒に住むことはせず、夫は妻の家に通うのが日常であった。
当然生まれた子は妻の家で養育されるため、藤原家で育った天皇が藤原氏の意向を重んじるのは当然であった。
ところが平安も後期になると、生まれた子は夫の家で養育するようになり、そこで育った天皇は、藤原氏の思いのままにはいかなくなった。
こうして170年振りに藤原氏とは姻戚関係のない後三条天皇が登場する。
そして彼とその息子白河天皇によって、新たな政治手法である院政が始まり、摂関政治に取って代わることになった。
こうして藤原氏による摂関政治は政治の表舞台から姿を消していった。
そして平安末期には、朝廷貴族そのものが平氏、源氏という武家政権に屈従せざるを得なくなる。
鎌倉時代
また、鎌倉時代の初め,藤原北家は近衛家と九条家に別れ、近衛家からは鷹司家が,九条家からは二条家と一条家が分立し、五摂家が誕生した。
これらの家名は、各々が住む住居の地名にちなんでつけられたものである。
このため、藤原北家は奈良から平安期までは本姓の「藤原」を称したが、鎌倉以降、「藤原」をやめ「近衛」「九条」「鷹司」「二条」「一条」を名乗るようになり、明治以後もそれを通した。
こうして鎌倉以後、五摂家は公家の最高格式とされ、政治権力は失ったものの摂政・関白職を独占した。つまり、摂関政治はじつに明治維新まで続いたことになる。
明治
明治に入るとこの五摂家は華族筆頭に位置づけられ、華族令が制定されると公爵に任ぜられた。
また、貴族院を通して政界にも登場、近衞家の第30代当主・近衛文麿が首相となって日中戦争の難局に対処した。
現在の近衛家当主は近衛文麿の孫、近衛忠煇氏(日本赤十字社社長)であり、忠煇氏の実兄が元首相・細川護熙氏である。
昭和に入って、藤原氏の末裔は年に一度、奈良市の春日大社に集まり「藤裔会」を開いているが、もはや藤原氏を名乗る子孫はみられない。
したがって世間にあまた存在する藤原氏は、明治の始め、各地にあった藤原という地名を苗字としたケースが多いといわれる。
なお、春日大社は藤原氏一族の氏神であり、興福寺は藤原氏の氏寺である。
春日大社と興福寺は神仏習合により、江戸時代の終りまで互恵関係を保ったが、明治維新で神仏分離令が出た後も両者の仲は壊れず、現在も春日大社と興福寺の間には交流が続けられている。