明治維新というクーデターが、頂点に明確な統率者をいだかないまま行われたというのは、どうにも奇妙な現象というほかない。
革命勢力の中心となった薩長の藩主、島津久光、毛利敬親はともに郷里にいて、部下のものから戦況を聞くだけである。
実働しているのは、それぞれの藩兵を率いる西郷、大久保、桂らであって、藩主の意向を伺う様子はない。藩主にとってみれば部下の独断専行であって、暴発という印象が強い。
一方の幕府軍も将軍・徳川慶喜は大阪城にいてそっと様子を窺っているだけである。
すでに大政奉還がなり、徳川氏は1大名になったとはいえ、400万石を越える領地はそのまま保有している。
そこで、京都にいて天皇を補佐する薩長軍は小御所会議を開き、慶喜に対し領地一切を返納せよと命令した。
この薩長の横暴な言動に、大阪城の幕府軍(会津、桑名中心)は怒り心頭に達し、1万5千の兵が武装したまま、陳情のかたちをとりつつも京をめざした。慶喜は大阪城にいて、制止するでもなく傍観している。
当然のごとく両者は鳥羽伏見で激突した。その結果、圧倒的兵力を擁する幕府軍が、薩英・馬関戦争で近代戦を経験した薩長軍に完敗し、退却した。
蟄居する慶喜
大阪城でこの報を聞いた慶喜は、呆れたことに即刻、会津、桑名藩主とともに夜陰に紛れて城を脱出し、海路江戸にもどった。
自ら陣頭指揮を執っていないうえ、すでに大政奉還を済ませたのであるから、あとは自分の知ったことじゃないよといって、上野寛永寺に蟄居した。
彼独特の自己弁護論である。このため、残された幕府軍残党は行き場を失った。
無論、慶喜の言い分は武士道にない。このため、慶喜は世の武士からそっぽを向かれたといえる。
一方、鳥羽伏見で勝ったとはいえ、島津久光、毛利敬親には何の相談もないままである。部下から明治維新が出来上がりましたといわれても納得がいかない。
ともかく、形ばかりとはいえ新政府が出来上がったのである。が、気がつけば政府には政権を維持する軍隊がいない。
戊辰戦争で戦った薩長を始めとする兵士は国許へ引き揚げて、もぬけの殻である。治安の悪さは覆うべくもない 。
そこで政府は、急きょ薩長土から天皇の御親兵として1万の兵を献兵させた。これが近衛兵となった。
さらに衝撃的だったのは、当時の政府の金庫のなかはほとんど空であった。とりあえず徳川氏の直轄領から入る税金だけで食いつないでいた。
明治になったとはいえ、全国280藩の収入は藩主がそのまま引き継いでいる。それを取り上げなければ、国としての機能は果たせない。
その打開策が廃藩置県であった。
廃藩置県
明治4年、政府は藩主の反発を和らげるため、全国の藩主を東京に集め、貴族としての栄誉と、生涯の十分な生活を保障したうえで、廃藩置県を断行した。
さいわい藩主からの抵抗は思ったより少なかった。政府首脳はなんとか財源の見込みがつき、ほっと胸をなでおろしたに違いない。
とはいえ島津久光などは、かねてから部下の西郷や大久保に「決して廃藩置県だけはやるな」と厳命していただけに、してやられたという思いが強い。
廃藩置県断行の夜、彼は忸怩たる思いで邸内に花火を上げさせ、憂さを晴らしたという。
その後、彼は西郷、大久保を相打ちさせるような画策をするもうまくいかず、悶々としていたが、西南の役で西郷が倒れ、翌年大久保が凶弾に倒れると、皮肉にも新政府における久光の威光は急速に失われていった。
彼らがいてこその存在だったことがわかる。
藩主の意向を無視して、部下によるクーデターが成功するという図式は、のちの昭和6年、政府の意向を無視し満州事変をひきおこした関東軍の暴発にみることができる。
近代日本の変革時にみる特異現象といえるのではないか。