応仁の乱
台風のあとに流木が積み重なって川をせき止め、水が溢れ出す光景をみることがある。しかし、死体が積み重なって川をせき止めたとなると、尋常なことではない。
かつてわが国最大の内乱が京都であった。20万もの兵が11年にわたって刃を交え、京の街を焼き尽くした。そのうえ飢饉で幾多の民が餓死に追い込まれ、賀茂川に浮かぶ死体で川の流れがせき止められたという。
応仁の乱と呼ばれるこの戦乱は、当時の政権を担当する足利氏の家庭内不和によって引き起こされたといわれる。
当時の将軍・足利義政はこの惨状から目をそらし、あろうことか、能、茶、連歌、造園など風流の世界に逃避した。銀閣寺に代表される東山の遺産は、彼の無慈悲による産物といえる。
この時期、室町幕府の支配地(御料所)は全国にあるとはいえ、実質は大和、山城、近江など畿内の一部に限られている。その他の地には実力ある守護が割拠し、中央の言いなりにはならない情勢である。足利氏の実力はその程度のものであった。
しかも若き8代将軍義政は、意のままにならぬ政治に厭世観を強めていた。13歳のとき、父兄の死で突然、将軍職についたものの、まぎれなき傀儡政権で、なんの発言力もない。
19歳で日野富子と所帯をもったが、勝気な妻に振り回され、内憂外患の閉塞感のなかで、風流の世界に浸るか、側室と過ごす時間に慰みを得ていた。
富子
一方、妻の富子である。
16歳で足利家に輿入れし、将軍夫人となった富子は、義政の無気力に失望の念を隠せなかった。統治者としての政権構想がまるでなく、政治は側近に任せきりである。それをいいことに5人の側室を侍らせ、趣味の連歌、能、茶、花、などの風流に浸っている。
まして、側室のひとり今参局は、もと義政の乳母だった人物で、政権を動かすほどの権勢があり、正室・富子にとっては許し難い存在であった。
忸怩たる日々を送るうち、義政との間に待望の男児が生まれたが、わずか1日で夭折してしまった。これを機に富子は愛宕山の巫女に命じ、息子の呪詛を今参局に頼まれたと訴えさせた。その結果、今参局は流罪、義政の側室4人も追放処分となった。
これで家庭内での居場所が定まった富子は、夫への不満はあるものの、しばし心の平静を得ることができた。
ところが義政は、意のままにならぬ将軍職に見切りをつけ、崇拝する祖父の義満が、息子に譲位しながら院政を敷いたのを真似、28歳にして早くも引退をほのめかしたのである。
そして男児に恵まれぬため、仏門に入っていた実弟(義視)を呼び寄せて、跡目を継がせると宣言した。富子はむろん不服であったが、如何せん男児を生めないため、黙認せざるをえなかった。
それまで富子は二人の女児を生んでいたが、皮肉にも義政が弟を後継者にと宣言した翌年になって、男児を出産したのである。25歳で得た念願の男児、のちの9代将軍・義尚である。
こうなると、富子は黙っていない。10年ぶりの男子誕生に狂喜し、跡目相続を白紙に戻せと夫に迫ったのである。
しかし義視のほうも黙っていない。いったん決まった後継者の約束を反故にするなど、受け容れられるわけがない。妻と弟の狭間で、義政は優柔不断から抜け出せないでいる。
義政は義視を納得させるため、後見人に政権No2の細川勝元を指名した。
そこで富子は、これに対抗しうる実力者・山名宗全(侍所長官)に、息子の後ろ盾を依頼した。そしてできれば勝元を失脚させ、息子・義尚を将軍に推し立てようと目論んだのである。もはや頼りない夫の存在は眼中になく、自ら政権を動かそうと身を乗り出したのである。
こうして1467年、将軍の後継問題と守護大名の争いが絡み合った結果、応仁の乱が勃発し、以後11年をかけて京の街は廃墟と化した。幕府の収入は減る一方である。
幕政を牛耳る富子
もともと義政は政治に興味がないわけではない。成人してからは、何度か、守護大名の内紛に乗じて幕府権力を取り戻そうと試みたが、奏功しなかった。応仁の乱も、将軍の権威で戦闘中止を宣告したが、振り返るものはない。実際に幕政を牛耳ったのは、富子とその兄妹たちであった。
将軍でありながら、もはや義政には立つ瀬がない。失意のうちに、彼は政務への関心を失っていった。世間では徳政一揆が頻発し、疫病、飢餓が蔓延するなか、彼は現実から目をそらし、猿楽、遊山、酒宴などに身をゆだね、自らの慰めとした。
なんとか息子を次期将軍に据えたい富子は、政権を掌握するための最後の切り札は「金」だと確信している。そこで、自らは東軍にいながら、東西を問わず両軍の大名に貸し付けを行うという破廉恥を平然とおこなった。長引く戦争で、多額の戦費に困窮する大名が続出したのに目を付けたのである。
さらに富子は京の出入り口に関所をもうけ、関銭を徴収して自分の懐に入れたり、米を買い占めて相場を操作し、収益を得た。
このため、世間からは守銭奴のごとき悪名をはせたが、一途に息子の政権運営が円滑に進むのを念じてのことである。事実、応仁の乱のあと、傾いた幕府財政を支えたのは、富子の7万貫(約70億円)ともいわれる蓄財であった。
応仁の乱の後半、1473年に両軍の大将・宗全と勝元が相次いで病没すると、37歳の義政は将軍職を8歳の息子・義尚に譲った。かつて祖父・義満がおこなったように、息子の後ろで権力を握り続けようと目論んだのである。その4年後、両軍ともに兵力を消耗し切って、応仁の乱が終息する。
この頃から義政と富子とは別居状態となる。夫婦の関係はすでに冷え切っていた。
一方、第9代将軍となった義尚は長じるに従い、政務を後ろで操ろうとする父と折り合いが悪く、さらに生活諸事にことごとく口を出す母・富子にも距離を置くようになった。
息子、義尚の死
そして10代にして酒食に溺れ、徐々に富子を疎んじるようになり、25歳の若さで早逝するのである。
唯一の希望であった息子の死に、富子の悲嘆は計り知れない。彼女はすでに年老い、49となっている。しかし気丈な彼女は自らを鼓舞し、再度政権復帰を摸索する義政に引導を渡したのち、自分の妹と義視との間に生まれた義材(よしき)を第10代将軍に擁立した。
その後ほどなく義政は病に伏せ、わずか1年後、長らく建設中であった銀閣寺など東山山荘の完成を見ずに世を去った。享年55であった。
息子、夫に先立たれた富子は、なおも気を奮い立たせ、士気を高めている。擁立した将軍義材が自分の意のままにならぬとみると、守護・細川政元(勝元の子)と共謀して彼を廃嫡し、亡夫の甥・義澄を11代将軍に据え替えた。まさに政界のフィクサーとして君臨したのである。
その富子も夫の死より6年の後、57年の生涯を閉じたのであった。
義政・富子夫婦は、どの角度からみても相性が悪かったというにつきる。しかも、富子は「守銭奴」、義政は「無能将軍」と、ともに不本意ながら後世に名を残した。
義政の無策で夥しい命が失われたことは、今や知らぬものがないが、東山の庭園に立つと、ふとそれらを忘れてしまいそうである。
銀閣や庭園の高尚な意匠は、非情にも当時の背景を隠してしまう。
わたしたちは目に見えるものしか信じられない、その程度の存在なのだと、思い知らされることである。