人類の祖先は600万年前まず類人猿と分かれたのち、紆余曲折を経て今から15万年前、ついにホモサピエンス(現在の人類の祖先)が登場してきたのです。
その後10万年前にはアフリカ大陸の対岸に位置する中東地域に進出します。
中東地域に進出した人類は、ヒマラヤ山脈を南に通り、5万年前に東南アジアに達しました。
その後、中国大陸を北上しシベリアへ向かう途中、その一部が陸続きだった日本へやってきました。
一方、中東地域に進出した人類のうち、ヒマラヤ山脈を北に向かった人たちは、ユーラシア大陸を横断し、極寒のなかを3万年前になってやっとシベリアへ到達しました。
南ルートより2万年も余計にかかったことになります。
そこからも一部の人たちが日本へやってきました。
つまりマンモスなどの食料を求め、東へ東へと向かった人たちがたどり着いた終着駅が当時、中国大陸とつながっていた日本であったのです。
最果ての地、日本
東へ向かった人たちにとって日本は最果ての地でした。
彼らは押し寄せる波のごとく、繰り返し日本をめざして突き進み、そこに腰を落ち着けたのです。
日本は1万2~3千年前、中国大陸から分かれて孤島となりました。
このころ始まった縄文時代は1万年という気の遠くなるような自然発生的鎖国時代です。
それまで湖であった日本海に暖かい対馬海流が南から流れこんで水蒸気を発生させ、シベリアから吹きつける寒気によって北日本に豪雪をもたらすようになりました。
東アジアの人々が大きく動き始めたのは、中国の春秋戦国時代というお家事情が原因です。
紀元前7世紀から始まった全国的内部抗争が500年間続けられた結果、土地を追われて流民、難民が各地に発生しました。
その多くは命を断たれるか、逃げ延びた先でかろうじて命を長らえるか、あるいは命を賭して海を渡り日本をめざさざるを得ませんでした。
彼らは樺太から北海道へ、朝鮮半島から九州へ、琉球から鹿児島へとさまざまなルートをたどってやってきました。
当時、日本へ渡るだけの舟、食糧は勿論、航海術もありません。
艱難辛苦の結果日本へ辿りついてみると、おもいのほかの無風状態にほっとしたことでしょう。
しかも彼らは土着の縄文人よりからだが大きく、安定した食糧補給を約束する稲作文化と作業効率の優れた鉄器を持っていました。
先住の縄文人はおおむね大人しい性格の人たちだったのでしょう。
彼らは大陸の文化に素直に驚き、圧倒され、一部は逃避、一部はひれ伏し同化していったのでした。
こうして数百年にわたって渡来人の流入が続いた結果、縄文時代の終りに7万まで落ち込んだ人口は、弥生時代の終わりには約百万人に回復したのです。
このようにして造られた日本人とは、もとの土地には住めなくなった流れ者の集団ともいえるでしょうし、幾多の障碍をも乗り越え新天地を求めて突き進んだ人々だともいえます。
雑多な人種の吹きだまりという感がしないでもありませんが、その成立についてもう少し詳しくみてみようとおもいます。