愛媛県展望/EHIME

松山市紹介

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石手寺と衛門三郎

当院は松山市の東南、四国八十八か所のうち51番札所・石手寺のそばに位置します。

石手寺は奈良時代の創建ですが、その縁起については遍路の元祖とされる衛門三郎の転生物語があります。

813年に弘法大師が伊予の国を訪れた際、土地の豪族・衛門三郎にお布施の依頼を拒絶され鉄鉢を叩き落とされたそうです。

その後、衛門三郎は罰があたり次々に子供を亡くしてしまいます。

反省した三郎は許しを乞うため弘法大師を追って旅に出ますが、阿波の国で力尽き客死してしまいます。

ところが死の直前大師が現われ、謝罪する三郎の手に衛門三郎と書いた路ばたの石を握らせます。

翌年、道後の領主、河野息利の妻が生んだ子がこの石を握って出生。

のち、善政を敷いたという話しです。

「衛門三郎」と書かれたこの石は石手寺の寺宝となっており、四国八十八ヵ所中、最も人気ある寺院のひとつになっています。

日本最古の湯、道後温泉

また、当院から歩いて15分の距離にある道後温泉は日本最古の湯として知られています。

道後温泉を訪れる観光客の多くはまず入母屋造りの本館の偉容に感心するようですが、道後温泉本館は明治23年、この地の町長・伊佐庭如矢氏が他にまねの出来ないものをつくることが、後世この町を潤すと英断してできたものです。

道後に日本庭園を造り、道後と城下に電車を走らせ、坊ちゃん団子をつくったのも彼の功績です。

おかげで毎年花見の時期になると、道後公園は殷賑を極めるようになりました。

さらにこの地が人口に膾炙するようになったのは、中世の覇者・河野氏がここに道後湯月城(のちに湯築城)を築いたからです。

築城といっても二重に堀と土塁を盛り上げたもので戦国期に出現する壮大な城郭の体はなしていませんが、数年前中世城郭の遺跡を残す日本庭園として甦りました。

河野水軍と姫だるま

古い話しですが大化の改新のあと、国府は今治市の郊外につくられたため、国府より都側を道前、反対側は道後と呼ばれていたのです。

この道後湯築城の後ろの押えとして義安寺という寺が築かれましたが、元寇の役で無念の討死にをした河野通時の姫がここに住み、終生父を弔って過ごしたといいます。

その後この地は姫塚と呼ばれるようになり、義安寺が禅寺であったため、近隣の人々がだるまに姫の顔を画いて供養したそうです。

これが伊予の特産品姫だるまの起こりです。

その河野氏は源平合戦の最終戦で颯爽と歴史の舞台に登場します。

河野水軍は海上戦を得意とする平氏には付かず、舟いくさの苦手な源氏に付いて戦略を指導します。

河野通信(みちのぶ)は潮流の激しく変わる壇ノ浦に臨み、義経を説いて潮流が自軍に有利になるまでひたすら防禦に専念させ、潮流が変わるや一転、水手(舵取り)に照準をしぼって矢を集中攻撃させます。

作戦は大成功し、平家の舟はことごとく漂流船となって勝負は決したのです。

鎌倉御家人の一角をなした河野氏は、承久の乱で没落の危機に会いますが、元寇弘安の役で復活して伊予の守護となり、以後400年にわたって、伊予の国を支配しました。

しかしついに天正15年(1587年)秀吉による四国征伐に屈し、河野一族は義安寺に集まり、全員が自刃して果てたのでした。

加藤嘉明と足立重信

その後、関ヶ原の戦いを経て20万石の大名となった加藤嘉明は、この地に本格的な防御体制をもつ平山城(平地にある丘陵や山に造った城)を築きます。

また腹心の部下・足立重信に命じ、水害の多かった伊予川の大改修に成功します。

嘉明は重信の功績をたたえ、以後この川を重信川と命名しました。

河川に個人名がついた全国でも稀な例です。

彼は前任地の伊予郡松前町から豪商を呼び寄せて松前町とし、道後湯月城周辺の商人を移動させ、道後町、今市町、一万町をつくりました。

また慶長の役での捕虜を一か所に住まわせ唐人町としました。

今の三番町1,2丁目にあたります。

ところが幕府の命で検分に訪れた福島正則に、大掛かりな築城を“只事ならず”と報じられたため、築城完成目前になって嘉明は突然会津42万石へ転封させられます。

破格の条件にもかかわらず、嘉明は無念の思いで松山を後にします。

久松定行

嘉明の去ったあと蒲生忠知を経て、家康の異母弟・久松定勝の子、定行が松山十五万石の藩主となります。

この時、久松家は徳川一門として松平の性を名乗ることを将軍家より許され、同時に中・四国の探題として勤めることを求められました。

家康は外様大名の配置に苦慮しながら、将来徳川家の脅威は薩摩など西国大名であると見切っており、瀬戸内沿岸に睨みを利かせることに腐心したのです。

49歳で松山藩主となった松平定行は城下の町制整備に努めながら、道後温泉の整備、拡張にも精力的に取り組みました。

十五万石、松山藩

松山藩は十五万石と決して大藩ではありませんが、城の北郭には一万石の蒲生家、東郭(現東雲学園高校)には4,200石の稲田家、南側、県庁のあたりには4,500石の本山家があり、武家屋敷はおもに城の西・北・東側にありました。

1,000~2,000石の重臣は主として堀の内に居住させていました。

堀の内にある二の丸跡は現在日本庭園として整備され、三の丸跡は野球場、陸上競技場、県立図書館、美術館、市民会館など市民憩いの場となっています。

中堅家臣は城の東南・代官町に住まわせました。

町名は武家組織である大番組からとり、一番町(500石以上)、二番町(300~400石)、三・四番町(100石)と命名しました。

下級家臣(百石以下)は、徒士(かち)を歩行町に、足軽・中間を八坂町・唐人町周辺に住まわせました。

さらに配下の武士の生活を支えるため、前任地・桑名から腕のいい商人や職人を呼んで城の西側に住まわせ古町(こまち)をつくり、地租免除の特権を与えました。

ここには呉服町、萱町(茅屋町)、魚屋町、米屋町、紙屋町などの商人街と鍛冶屋町、畳屋町、紺屋町、桧物屋町、研屋町、傘屋町などの職人町ができました。

城南の発展

これに対し、城の南側は城主から注目されていなかった地域です。

ここは免税がないかわりに規制もなく、たまたま中級~下級家臣の屋敷がそばにあったため、予想外の発展をとげました。

これが今に至る県下随一の大街道と銀天街誕生の由来です。

大街道はかつて、秀吉の朝鮮出兵で捕虜として連れて来た人々が住んだことから小唐人町(ことうじんまち)と呼ばれていました。

そこへ古町(こまち)から呉服商が移って来て、賑やかな町に変わってきました。

その後相次いで商店や旅館などが軒を連ね、大正時代には通りに沿って流れる用水路を埋め立てて、文字どおり大街道となりました。

商店街の東の一帯は中国人が住んだところから北京町(きたきょうまち)と呼ばれ、現在最も賑やかな飲食街となっています。

銀天街は昭和29年にアーケードができ、天井が銀色に光って見えるところから命名されましたが、それまでは湊町、それ以前は港町と呼ばれ、四番町は千舟町と呼ばれるようになりました。

街中に港や舟の名があるのは、商業が活性化した結果、ここから中ノ川という水路を利用し、三津まで商品や米を小船で輸送したことが命名の由来となっています。

タルト、五色そうめん

1644年、長崎に入港したポルトガル船警護の幕命をうけた定行は、この時長崎でみた洋菓子の製菓技術を藩士に学ばせました。

これによって和風味のタルトが誕生しました。

定行は隠居した後、裏千家の千宗安に命じ、当院にほど近い東野の地に壮大な庭園を造らせ余生を過ごしましたが、残念ながら明治になって取り壊されてしまいました。

江戸時代、松山の名産といわれた五色そうめんには興味深いエピソードがあります。

寛永年間にそうめん業を始めた長門屋の八代目店主の娘のはなしです。

ある日、彼女が椿神社に参詣した帰り、偶然五色の糸が下駄に絡みついたのを見て、そうめんに五色の色をつけてみてはどうかというアイディアが浮かびます。

この助言を得て父親は試行錯誤の結果、白地のそうめんに、鶏卵(黄)、抹茶(緑)、梅肉(赤)、そば粉(茶)を混ぜた五色そうめんの創作に成功。

これが評判を呼び、藩主から将軍家へ、さらには朝廷へも献上されることになりました。

のちに近松門左衛門や正岡子規などにも愛されたことで有名です。

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学問

江戸時代、松山藩は大洲・宇和島の2藩とならんで学問に熱心でした。

もとは各家庭で師弟教育していましたが、藩で人材登用の必要のため藩校をつくりました。

最も早く藩校を設立したのは大洲藩で、江戸から川田雄琴を招いて陽明学を立ち上げました。

宇和島藩は 安藤陽州を招いて古義学を立ち上げ、士農工商の時代に画期的ともいえる士庶共学(身分に関係なく共学させる)をおこないました。

松山藩は親藩であり、幕府にならって朱子学を踏襲しました。

このように儒学とはいえ各藩各様でしたが、1791年寛政の改革で老中・松平定信により全藩朱子学に統一されました。

一方、享保の改革以来、蘭学を学ぶことが自由となり、幕末にかけて伊予からは300余人が華岡青洲塾、適塾などへ遊学しました。

さらにはシーボルトやボードインのもとへ入門したものもいましたが、その多くは帰郷した後、藩医か地元医師となり地域に貢献したといいます。

徳川親藩、港、駅

松山藩は忠実な徳川親藩として200年余を過しますが、幕末にいたり、松山藩主松平定昭が幕府老中に就任しますが、わずか一ヶ月で大政奉還を迎え失職します。

戊辰戦争の開始と同時に藩論は二つに割れましたが、藩主定昭が蟄居し、官軍に恭順の意を示すことで決着します。

しかし、かつて幕府の長州征伐の先陣を受け持ったことから長州の恨みを買い、鳥羽伏見の戦いのあと復讐の念に燃える長州の攻撃をうけました。

しかし、偶然一足先に松山城内に入った土佐藩のおかげで、殺傷事件にはならず、三津浜にて事なきを得たのでした。

三津浜は水軍の軍港として発足したようですが、皇族行幸の際に船を泊めたため御津(みつ)と呼ばれるようになり、江戸時代には松山藩の参勤交代における外港として舟奉行・町奉行が設置されていました。

明治39年、高浜港が開港し定期航路が移動してからは、三津は商業の町として発展することになります。

三津浜から松山へは明治21年、漱石が坊っちゃんのなかで「マッチ箱のような」と評した軽便鉄道、伊予鉄の陸蒸気(おかじょうき)が我が国で最初に走りました。

その後も松山の電車は伊予鉄道を中心に発達しますが、最大のターミナル駅旧松山駅は昭和2年、国鉄松山駅が作られた際、不本意にも松山市駅と改称させられました。

今でも松山市駅はJR松山駅の2倍の集客力をもち、四国最大のターミナル駅として賑わっています。

夏目漱石、正岡子規

夏目漱石は明治28年、英語教師として松山中学(現在松山東高校)に赴任。

偶然肺結核の治療で帰郷してきた親友、正岡子規と54日間、一つ屋根の下に住んでいました。

当時の松山市の人口は3万3千です。

子規は漱石をに見立て、うまみ沢山まだ渋の抜けぬのも混じれリと軽妙に評しながら、彼の幅広い学識を高く評価し畏友として接していました。

不幸にも若干22歳で喀血し、血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスに自らをたとえ、子規(ホトトギスの異称)と名乗りました。

そして29歳で結核という死の宣告を受けた彼は、以後7年間病床生活を強いられながらも俳句、散文の世界に情熱を注いでいきます。

彼の真骨頂は現実から目を離さない、徹底した写生・写実主義です。

修辞技巧を凝らしただけの無意味な美文を切って捨て、現実に密着した生活詠にこそ価値がある。

それもたんなる写生ではなく、やま(テーマ、モチーフ)を持たなければならないという彼の主張は、山会という松山組の書生(虚子や河東碧梧桐)を中心とした団欒の場から発信され、当時の文学界に旋風をおこします。

山会は子規の死後も虚子の「ホトトギス」に継承され、そこに漱石も参加してはじめて筆をとります。

「吾輩は猫である」はこうして生まれました。

子規に発し漱石で結実したともいえる新文体は、現代文章語生みの親となりました。

竹馬の友、秋山真之

子規にとって剛友・秋山真之は同じ松山藩下級武士のうちに生まれた竹馬の友でした。

一時は子規とともに文学を目指しますが、学費・生活費が要らないという理由で海軍軍人への道に進みます。

その後海軍で能力を開花させた彼は、連合艦隊司令長官・東郷平八郎に「智謀湧くが如し」と絶賛され、日露戦争における海上作戦のすべてを任されます。

彼が日本海海戦でとった敵前大回頭による丁字戦法は外国の海軍戦術書にはなくロシア側を驚愕させますが、実は河野・村上水軍の戦術に学んだものでした。

世界海戦史上例のない完全勝利の源泉は意外なところにあったのです。

廃城令と松山城

それにしても明治政府からは朝敵とされ、廃城令をうけながらも十五万両の贖罪金でなんとか松山城が残ったことは、観光松山にとってありがたいことでした。

とくに松山城の大天守は、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の城郭建築で、姫路城とともに天守防衛の究極の姿といわれるその連立式天守は貴重な歴史的遺産といえます。

松山城主松平氏は明治政府より、もとの久松に改姓させられましたが、廃藩置県後も伊予の殿様として人気を保ち、特に久松定武氏は戦後、5期の長きに渡って愛媛県知事を勤められました。

この間愛媛みかん栽培の振興に尽力し、ポンジュースの名付け親にもなっています。

昭和の町名改正

昭和に入り、大幅な町名改正がおこなわれました。

通称、小唐人町一、二、三丁目が大街道にまとめられ、藩のお囲い池の築山かあったところから築山町、中の川に土の橋が架かっていたところから土橋町、未来永劫続くようにという意味で永代町、松山城大手門があったところから大手町、藩のお花畑があったので花園町、石手川の水量の多いところから出水(いずみ)、転じて泉町となりました。

また柳井の泉という井戸があったところから柳井町、阿弥陀の石仏が見つかったところから生石町、砂田があったところから真砂町、石手村に白い御影石がよく採れたので石手白石、練兵場あとに学校が集まっているところから文京町、城の緑が美しいので緑町、道後の南にあるので南町、湯月城のそばで市がたったところから上市となりました。

桑原は雷が桑の畑(桑原)には落ちないという迷信から全国各地につけられています。

また町内にある神社名から祇園町、喜与町、岩崎町、東雲町、春日町、住吉町が、寺社名から梅津寺、太山寺、安城寺、福音寺、正円寺、浄瑠璃寺がそのまま町名になりました。

古事記と姫原

姫原は「古事記」に伊予流刑の地として出てきます。

倭の五王の一人、允恭(いんぎょう)天皇の皇太子、キナシノカルノミコ(軽太子)と実の妹との禁断の恋物語です。

軽太子は美貌の妹と許されぬ関係となり、天皇の死後これが世間に知れ渡ったため、弟の手によって道後の地に配流となります。

その後、諦め切れぬ妹は兄を追って伊予に向かい、姫原の地で邂逅したのち、世をはかなんで心中したといいます。

また衣山は、菅原道真が太宰府に流される途中、伊予の国に立ち寄り、旱魃に悩む土地の人に頼まれ雨乞いをしたところ降雨となり、狂喜した住民が雨に濡れた衣服を乾かしたところから名づけられたといいます。

椿祭

松山の祭りといえば、伊予路に春を呼ぶといわれる椿祭が最も親しまれているようです。

地元では椿さんと愛称され、旧暦正月の7日から3日間で80万人もの参拝客が集まる四国一の大祭です。

通常、椿神社と呼ばれていますが正確には伊予豆比古命(いよずひこのみこと)神社です。

その名の由来は、大昔、神社の周辺は海原であったため、伊予豆比古命・伊予豆比女命の二柱の神様が御舟を寄せられたとの伝説から、

津(海)の脇の神社 > つわき神社 > つばき神社

となったそうです。

焦土と化した松山市の復興

太平洋戦争は、松山市にも甚大な被害を及ぼしました。

終戦直前の7月26日には松山市も128機のB-29による大空襲にあいました。

米軍による2時間の空襲で松山市は焦土と化し、城の内堀は焼死体で埋まり、被災者は市民の53%(6万人)に達しました。

終戦後、アメリカ第24師団1万人の将兵が、松山市に進駐し以後4年間、占領軍による松山統治がおこなわれました。

県庁・市庁・裁判所・日本銀行が焼け残ったのは不幸中の幸いでしたが、市の商店街の中心である湊町や大街道は焼き尽くされました。

廃墟と化した市街地では焼け出された人々が、買い出しをしながら飢えを凌ぎました。

ほどなく自由市場という名の闇市が、中ノ川筋・新立橋・立花橋・国鉄駅前・市駅前等に出現、また市街のいたるところで、掘立小屋のおでん屋が登場しました。

そして早くも昭和20年12月には市駅前に伊予鉄マーケットが、翌年には三越百貨店が一番町に開店し、市民は食料難、住宅難、就職難の三重苦に悩まされながらも着実に復興への道をたどっていったのです。

愛媛と高知

愛媛は明治後の命名(もっとも古事記には「伊予国は愛比売と謂い」とある)で、もったいないほどにやんごとなき女性の意といわれています。

しかし、古代から江戸までの1,200年間は、伊予が国名として使われてきました。

伊予の国は大和の昔から江戸時代に至るまで、中央からは益にも害にもならない中ぐらいという評価をうけてきたようです。

実際、県民自身による気質アンケート調査でも、1位は保守的、2位は消極的、3位は閉鎖的で、比較的地味な県民性が窺われます。

また伊予人気質を表す言葉として、伊予の駆け出し(みさかいなく駆け出す)、伊予の早や曲がり(前方車を無視して右折する)、伊予人の歩いた後は草も生えない(商売があくどい)などがありますが、自虐的に言ったものか他県人から言われたものか、あまり誉められたものではありません。

これに対し隣県である高知は、奈良・京都の朝廷から極悪人を流す遠流の国の扱いをうけていました。

それが中央に対する反骨精神を育んだのかもしれませんが、土佐の強武士土佐の異骨相(いごっそう)などその対照的な県民性と比べてみれば、わが伊予人気質が際立ってくるように思われます。

首都圏から睥睨すると松山は経済・文化ともに鄙びた田舎の感がありますが、20年来急速に道路整備が進み、瀬戸内しまなみ海道や瀬戸大橋を経て中国地方への往来も楽になりました。

古来因循姑息のそしりを免れなかった保守王国松山ですが、近年、市政刷新と行動力をスローガンに若い中村時広市長が誕生し、坂の上の雲(子規・秋山兄弟を中心とした司馬遼太郎歴史小説)をイメージした街づくりが功を奏し、街が明るくなったと好評です。

いまや50万都市となった松山ですが、温暖な気候に恵まれ、物価も安く、交通のアクセスがよく(街中から空港までわずか15分)、各種マスコミのアンケートで住みやすさ日本一の評価をしばしば受けるに至っています。

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