愛媛県展望/EHIME

大洲市紹介

大洲市紹介

大洲市紹介


大洲市は愛媛県の南にあって、肱川流域の大洲城を中心に発展した町です。風光明媚な盆地で、古い町並みが保存されているところから、しばしば「伊予の小京都」と呼ばれています。

大化の改新以後、大洲は伊予国宇和郡に属していましたが、平安初期には独立して喜多郡となりました。そして鎌倉時代には、北条氏より伊予国守護に任ぜられた宇都宮氏の支配下となり、240年のあいだ平穏が保たれました。

戦国期に至り、宇都宮氏は河野・毛利連合軍の攻勢に敗れ、最後に乱世を制した羽柴秀吉の命により、藤堂高虎が宇和島から大洲に入り、城下の町割りをおこないました。

その後は淡路・州本城の脇坂安治が引き継ぎましたが、この頃からこの地を、大津から大洲と呼ぶようになったといわれています。

徳川政権になると、脇坂は信濃飯田城主に転封され、米子の加藤貞泰が、6万石で入城しました。以後、大洲藩は12代にわたって加藤氏の治政のもとで江戸250年を過ごします。

幕末、大洲藩は早くから勤王で藩論が一致しており、鳥羽・伏見の戦いにも勤王藩として参陣しました。

明治4年廃藩置県により大洲県が設置され、その後、神山県を経て愛媛県に編入されました。そして明治17年、華族令により加藤家は子爵となりました。

大洲加藤家の藩主たち

興味深いことですが、江戸時代の小藩ではしばしば学問好きの藩主が出て、藩を上げて学問を奨励するという傾向がみられます。

ほとんどが地方の外様大名で、学問でしか天下の耳目を集められないと考えたのかもしれません。越前大野藩、豊前中津藩、石見津和野藩などにその風をみることができます。

加藤家にも同様に好学の気風があり、大洲藩もさかんに学問を精励しました。岐阜を本拠とした加藤家の祖・加藤光泰は平素から儒書に親しみ、朝鮮の役にも論語・孟子を携帯したといいますが、無念にもかの地で客死します。

その後を継いだ加藤貞泰は若年のため、24万石から4万石に領地を削られますが、のちに関ヶ原、大坂の陣での働きを評価され、鳥取6万石、ついで大洲6万石の大名に転封されます。

こうして大洲初代藩主となった貞泰は、連歌を好み風雅の嗜みがある人物として知られ、2代藩主・泰興(やすおき)も臨済宗・盤珪永琢(ばんけいえいたく)に帰依して参禅し、心身を鍛練したといいます。また、3代藩主・泰恒(やすつね)は、画を狩野常信に師事し,書や和歌にも堪能な文化人として名を残しました。

つぎに5代藩主・泰温(やすあつ)は江戸藩邸で聴講した陽明学者・三輪執斎に感服し、高弟・川田雄琴を大洲に招いて学問の普及および学舎建設を委託しました。

大洲に入った川田雄琴は、藩主、藩士の陽明学講義に専従するだけでなく、並行して学舎建設にも取り組みました。

そして6代藩主泰衑(やすみち)の治世になってやっと、祠堂明倫堂と講堂止善書院が完成。伊予では初の藩校が発足しました。

その後、10代藩主・泰済(やすずみ)は、陽明学のほか朱子学、敬義学、神道まで幅広く造詣を深め、敬愛する北宋の名宰相・韓琦(かんき)の著作「韓魏公集」の刊本が我が国にないのを嘆き、好学の息子、11代藩主・泰幹(やすもと)と2代にわたって全17巻を刊行しました(1,842年)。

幕末にいたり大洲藩では洪水や風水害が相次ぎ、藩の財政が窮迫したため、藩主・泰幹は物価引下げ、公定価格制度導入など財政改革に取り組んでいるさなか、急死します。

そこで僅か10歳の泰祉(やすとみ)が12代藩主となり、父の路線を継承しようとしますが、21歳で夭折してしまい、急遽、弟・泰秋(やすあき)が13代藩主となります。

泰祉・泰秋兄弟の品行方正は、当時藩主の鏡といわれ、泰秋は自ら倹約に努めて窮民を救済しながら、外国船の出現に対し軍備の増強にいそしみました。

泰秋は勤皇倒幕の官軍として戊辰戦争に参加したため、維新後子爵を授けられ、貴族院議員を歴任し、のちに大正天皇の侍従も務めました。

大洲城の歴史

文禄4年(1,595年)、秀吉の命で藤堂高虎が入城してから、大洲城は近世の城郭として造営が始まり、慶長14年(1,609年)入城の脇坂安治がさらに手を加え、完成したといわれます。一説によれば、天守は前任地・州本城から移築したのではともいわれています。

その後は、江戸時代を通じ加藤氏が城主となりました。明治維新後、城内の建築物の多くは破却されましたが、地元住民の努力により、本丸の天守と櫓の一部は残りました。

しかし木造ゆえに天守の老朽化がすすみ、明治21年(1,888年)やむなく解体の運命をたどります。残った、4棟の櫓(台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓)は、いずれも修理されたのち、国の重要文化財に指定されました。

天守閣の復元事業は、平成6年、大洲城天守閣再建検討委員会が発足し、平成8年、建築史家、故・宮上茂隆氏による「木造による完全復元が可能」との声明をうけ、一機に事業が本格化しました。

大洲市はこれを市制施行50周年記念事業と位置づけ、官民一体(市民による多額の寄付)となって取り組んだ結果、平成16年、10年がかりの復元工事が完成しました。

明治時代に撮影された外観写真が残っていたこと、大洲藩の作事棟梁・中村家に天守雛形(木組み模型)など内部構造の資料があったため、当時の工法のまま、復元が可能となりました。このようなケースは全国的にも極めて稀といわれています。

再建された天守は、北に高欄櫓、西に台所櫓を配置し、渡り櫓で両者を結ぶ複合連結式の4層4階となっており、その壮麗な姿から平成18年、日本100名城に選定されました。

肱川あらし

肱川あらしとは、冬型の気圧配置が緩んだ日の朝、上流の大洲盆地で発生した冷気が霧となって、肱川沿いを一気に瀬戸内海へと流れ出す現象をいいます。

大洲市は盆地であるため、地表が放射冷却により冷え込みやすく、霧の発生しやすい条件下にあります。さらに肱川は下流から河口付近まで狭まった形になっているため、発生した白い霧が肱川を下り、風速10キロ以上の強風となって河口を吹き抜けるのです。

川に沿って霧がゴォーとうなり声を上げながら海へ噴出し、沖合いへ向かって扇状に広がっていく様は、幻想的な美しさです。河口近くの小高い山の上に「肱川あらし展望公園」があり、その絶景を楽しめるほか、瀬戸内海に点在する島々をも眺望することができます。

大洲の鵜飼

鵜飼については、すでに日本書紀や古事記にも記述されており、平安時代には長良川の鵜飼により、鮎が国司より天皇へ献じられたといいます。

また武家政権下でも源頼朝、信長、家康がそれぞれ鵜飼を見物、堪能したという記録があり、鵜飼はその時々の政権下で保護されてきたといえます。

明治に入っても、鮎は宮中の食膳をつかさどる大膳職に上納され、のちに長良川の一部が宮内省の鮎漁の御猟場とされるまでになりました。

大洲の鵜飼は江戸時代に端を発し、客は屋形船に乗って、鵜匠が鵜を操りながら鮎漁をするのを見て楽しむというものです。昭和32年(1,957年)に市の観光事業として復活し、夏の風物詩として定着しました。

現在、岐阜県長良川・大分県三隅川と並び日本三大鵜飼に数えられるまでになっています。

 臥龍山荘

臥龍山荘は、臥龍の淵に建てられた数奇屋建築(茶室)の傑作です。臥龍の淵は肱川随一の景勝地といわれ、歴代藩主が遊興の地として好んだ場所でもあります。淵にある小島が横たわる龍に似ていることから、3代藩主・加藤泰恒により「臥龍」と命名されたそうです。

明治以後、この地は荒廃したまま放置されていましたが、明治30年、木蝋輸出を手掛けた貿易商・河内寅次郎が、三千坪にも及ぶこの地を購入。余生をここで過ごそうと、風流な和風住宅を建設しました。

彼はまず、京の茶室建築家・八木甚兵衛を招き、桂離宮や修学院離宮をイメージした構想をもとに、設計を依頼しました。そして、大洲藩作事方の子孫・中野虎雄や、千家十職(茶の三千家に出入りする塗り師・指物師などの職家)により建造をスタートさせ、4年の歳月をかけて完成しました。

特筆すべきは彼のひたむきな数寄へのこだわりで、一見地味ながら至る所に粋な意匠がほどこされています。

臥龍山荘は母屋の臥龍院、茶室の不老庵、知止庵(もと風呂場)の建物と借景庭園からなり、遠くに冨士山(とみすやま)、手前に肱川の風景を眺望できます。

臥龍山荘の母屋である臥龍院は、木造で茅ぶきの寄棟造りです。

そのうち「清吹(せいすい)の間」は「夏の間」とも呼ばれ、北向きで屋久杉を使った天井を高くして、風通しをよくしています。欄間の透かし彫りは趣向が凝らされ、花筏で春、水紋で夏、菊水で秋、雪輪窓で冬を表しています。また、落とし掛け(床の間上部の水平材)には自然に歪んだままの一位の木を用い、床板には貴重な楠の一枚板が使われています。

ついで書院座敷「壱是(いっし)の間」は桂離宮の意匠が盛り込まれ、床の間の書院窓は、松皮菱(まつかわびし)型窓(別名櫛形窓)となっています。この座敷は畳をあげれば能舞台になるように設計されており、床下は音響を良くするため、備前焼の壺を埋め込むという手の込みようです。

一方、八畳の茶室「霞月(かげつ)の間」は侘びの世界を表現するため、全体を緑灰色(利休鼠という)にまとめ、一見手の込んだ造作はなにもしていないかのようです。

しかしよく見ると、富士の掛け軸の前で、霞がたなびくように違い棚を造り、丸窓の向こうにある仏壇に灯をともすと窓が満月に見えるように工夫しています。さらに壁の一部をわざと塗り残して剥げ落ちた壁の下地を表現し、格子状に組んだ竹や葭を見せる下地窓(破れ窓ともいう)が、いっそう侘びの風情を強くしています。

臥龍院から庭園を抜けると、不老庵が、石垣の上から川面へせり出すように建っています(懸け造り)。平屋建て寄棟造りで、北面が茶室となっています。

窓からはすぐ下に肱川の流れを望み、あたかも屋形船で川下りをしているような意匠を凝らしています。また、夜には川面で反射した月明かりが天井をほのかに照らし、夜のしじまのなかで川のせせらぎに耳を傾ける風流なひと時を過ごせるようにしています。

こうして2,016年、臥龍山荘は数寄屋建築の傑作として、国の重要文化財に指定されました。現在は大洲市の維持管理下におかれ、一般に公開されています。

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