今から2千数百年前の老子の時代、中国は群雄割拠した戦国の世である。為政者はいかにして領土を広げ、自分の国を富ませるかに執心した。
このため、全国に諸子百家が現れ、リーダーのとるべき統治論を力説した。
その最大勢力が孔子を始めとする儒家であり、彼らは仁義礼などのモラルを尊重して安定した政治体制を確立し、官僚の処世術を説いた。
司馬遷によれば、老子は「隠君子」であって、政治の只中に身をおかず、日の当たらないところにいる有徳の人である。
老子には、為政者に頼まれ統治論を展開した形跡はない。役人の職を辞し、独り旅に出た途中、関所の長官・尹喜に請われ、道について論述したといわれる。多くの弟子にかこまれた孔子とは対照的に、老子はひとり孤独である。
筆をとる彼の頭に浮かんでいたのは、為政者であったろうか。決してそうであるまい。世にもてはやされる儒家の面々ではなかったか。
「老子」はかつて「孫子」と同様、兵術を論じた学派、「兵家」の書とされたことがある。それほどに、権謀術数を駆使した戦術論が熱く語られている一方で、醒め切った人生哲学というべき、人間の本質をえぐるような言葉が述べられる。
そこには儒家思想に対するアンチテーゼとして熱弁をふるう老子の姿が垣間見える。
儒家が為政者、官僚を意識して語られるのに対し、老子が負け組というべき世間の脱落者や競争に破れた知識人に語りかけているふうにみえるのは、そのためであろう。
老子の道(タオ)
老子の思想の根源には「道(タオ)」が横たわっている。孔子のいう「道」とは人の道であり、道徳である。
これに対し、老子の「道」は自然科学であって、人を含めあらゆる存在は、なにかある法則に沿って動いているという宇宙観であり、万物を存在させている大きな力を指している。
儒家は為政者に対し、仁義を重んじ、礼を尊び、現体制を維持させようとした。これに対し老子は、仁義も礼も不要である。
仁義や礼は、大いなる道が見失われたために必要になったもので、道にさえ従っておれば本来必要のないものである(大道すたれて仁義あり)とした。形ばかりの礼など何の役にも立たないというのである。
さらに、「学を断てば憂いなし」と、学問、知識すら不要であるといい、儒家に真っ向から反対している。
つまり、道に従っておれば生半可な知識など、かえって不安や迷いを引き起こしてしまうだけだというのである。
また為政者に対しても「大国を治むるは小鮮を煮るがごとし」といって、国をよく治めるには民をつつかず何も干渉しないほうが良い結果をもたらすとした。
見方を変えれば、為政者は一見なにもしないふりをして、陰ではあの手この手を打たなければならないと言っているようでもある。
事実、「賢を尚ばざらば、民をして争わざらしむ」、「欲す可きをしめさざらば、心をして乱れざらしむ」といって、為政者が才能あるものを採り上げなければ人々は争わないし、為政者が欲望を持たなければ人々も無欲となる。
したがって為政者たるものは、人々が不満を抱かないように努め、志を弱めて、無知無欲の状態にしておけば、民に反乱をおこされる心配がない。
さらに、「国の利器は以て人に示すべからず」と、民に対する厳しい統治の中身は、決して彼らにみせてはならないと言っている。
彼を穏健な好々爺と考えているむきには意外な一面を見た気がするだろうが、なにしろ戦国の乱世である。これくらいの権謀術数がなくて、為政者が務まるかという意気込みであろう。
無論心底には、儒家の「あるべき論」を一蹴したいという意向がある。
彼は戦略家であるが、決して好戦家ではない。
「兵は不祥の器なり」といって、戦いはやむなくするものであり、極力さけるべきである。そして「善く敵に勝つ者は争わず」といい、戦わずして勝つのが老子の本意である。
この点、孫子と同じ方向を向いている。
つまり、大国のほうから小国にへりくだって声をかければ、無傷で勝利を手中にすることができるのである。
面子など気にするなというわけだ。
また、「敢えてするに勇なれば、則ち殺され、敢えてせざるに勇ならば、則ち活く」といい、尻込みしてあの手この手で戦いを避けようとするものは、結局生き残る。格好は悪くても生き残る方が勝ちだといい、可及的な生き残り戦術を勧めている。
老子の言葉は逆説的な表現に満ちているため、はっとさせられるが、その実、隠れた真理に気付かされることが少なくない。このため、儒教に縛られ閉塞した社会へ風穴をあけた発言として、多くの共感者を得た。
ただ、彼の頭から儒家が消えたとき、彼は長年抱いている人生哲学についてポツリポツリと語り始める。
それは一体、誰に向かって語りかけているのだろうかと訝しがるほどに、普遍的な内容に満ちている。
彼の根源的な思想である「道」に従う生き方というのが、「無為自然」である。
という。
道は何もなさないでいるにもかかわらず、すべてのことをなしているという、得意の逆説である。
じつは無為というのは、なにもしないでよいということではない。作為的なことをするなというのである。
欲を出して、余計なことをしてはならない。自由な心で自然のままに(道にしたがって)生きようではないかという境地である。
そして「水」のなかに、無為自然が具現された姿を認め、「上善は水の如し」と称賛した。
すなわち、水は万物をはぐくみ、なにものにも抗わず、ひとが嫌うような低いところへと流れ、黙ってそこにおさまっている。
一方で、水は柔らかでしなやかであるのに、岩のごとき固いものをも打ち砕く(柔よく剛を制す)。
水はただ自然に任せて流れているだけなのに、多くの恵みを我々にもたらしてくれる。これこそ、道に従った理想的な生き方であるというのである。
そしてあるべき人間像について、つぎのように語っている。
といって、他人の心をよく汲み取れる人は智者である。しかし自分のことをよく判断できる人こそ真に明知の人というべきであるという。
また「希言は自然なり」、「知る者は言わず。言う者は知らず」といって、本当の知者は寡黙であって饒舌ではないという。
さらに、人と和すことができなければ、他人から評価されることにはならない。自分に従わない者を排除するのではなく、「和光同塵」といって、自分の才能や知識は伏せ、一歩引いて自分のほうから相手に合わせるようにすべきであるという。
さらに「人に与えて、己いよいよ多し」といい、他人へ奉仕をすることを喜びとし、「怨みに報いるに徳を以てす」と、うけた怨みを早く忘れ、親しみをもって接することが、道にかなった態度であるという。
実際には、なかなかできそうにないことを求めている。
また彼は処世の心構えを、老人の繰り言のように吐露している。
まず「天下の難きは易きよりおこり、天下の大は細よりおこる」と、いかなる困難や大事も最初は些細なことから始まることを肝に銘じ、「千里の行も足下より始まる」と、何事も地道にコツコツやることが大切だと言っている。
また、老子が繰り返し強調するのが、足るを知る「知足」という考え方である。
「禍(わざわい)は足るを知らざるよりも大なるはなく、咎は得るを欲するよりも大なるはなし」と、禍は満足することを知らない心にある。
そして「足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うからず」といい、分をわきまえ、ほどほどのところで満足せよといっている。
さらに「つまだつものは立たず」、「自ら矜(ほこ)るものは長からず」といい、自分を実際より大きく見せようとしたり、才能を誇示するようなものは、長続きしないと述べている。
つまり、ひとは分相応の人生を送るべきであって、欲を出さず止まることを知っておれば、心安らかに暮らすことができるという。
また、
という。安請け合いしたり相手をあなどると、あとで大変な目に遭いかねない。慎重の上にも慎重を重ねるようにせよ。成功を夢見るよりも、失敗をしない生き方が大切であると言っている。
さらに「甚だ愛すれば必ず大いについえ、多く蔵すれば必ず厚くうしなう」といい、地位や名誉にこだわれば、命をすり減らすことになる。
財を蓄えるのに執心すれば、いつかそれを失うはめになる。そこで「道を為すものは日に損す」といって、道を修めておれば、財産や地位を求める心も、病気を恐れる気持ちもなくなってしまうと言っている。
あるときは「曲なれば即ち全し」といい、曲がった木は使い道がないといって、切られずに寿命を全うすることができるが、真っ直ぐで見栄えのよい木は伐られてしまう。
時と場合によっては、自説を曲げてでも相手に従い、身の保全をはかれという意にとれるが、一方、社会的弱者のほうが、生き残るにはかえっていいこともあるよと慰撫しているようでもある。
また道にかなった生き方について
といい、一つ目は慈しみ、二つ目は控えめ、三つ目は人の先頭に立たないことだと言っている。
また老子はものの見方について、
と述べている。
つまり美も善も、有も難も、見方を変えれば、たちどころに醜や悪、無や易に変わってしまう。
したがって、この相対的な世界をよく自覚して、自然のなかで自由に生きていこうというのである。
そして人の本性として「持して之をみたすは、その已むるにしかず」といい、ひとは貪欲で、これでいいと満足することがなかなかできない。
富や地位を得て奢れば、かえって災難を招く事になる。仕事を成し遂げたとおもったら、はやく身を引くことだ。そして「功成りて身退くは、天の道なり」と、引き際の大切さを力説している。
さらに「天網恢恢、疎にして漏らさず」といい、悪い事をすれば必ず天罰が下る。頭のいい者なら、いずれそういう自然の法則に気づくだろうとうそぶいている。
このあたり、戦国時代の人々だけでなく、現代のわれわれの臓腑にもしっくりと収まるものがある。
老子のこの無干渉主義は、前漢のはじめ為政者のための統治論として採用されたものの、七代武帝の時代になると、時代にそぐわないと切り捨てられた。
そして以後2000年にわたって、儒教が中国の国教として採用された。ちなみに孔子の「論語」は、アジア世界で史上最大のベストセラーといわれる。
一方、「老子」は時を経るに従い、社会にうまく適応できない人々にとって「癒しの書」とあがめられる存在となり、後世、彼は神格化され道教の神となった。