一昨日、テレビでイラクに派遣されていた自衛隊員のドキュメンタリー番組があった。
今秋定年を迎えるAさんは、派遣決定と同時に、自ら挙手してイラク行きに加わった。
なんでこの時期にわざわざ危険に身をさらすのかという家族の声に対し、30年間勤め上げた実績を是が非でもこのチャンスに活かしたいという、職業人としての思いを吐露された。
考えてみれば、誰が好き好んでイラクへ自衛隊を派遣するだろうか。
突き詰めれば、資源を持たぬわが国が今後も確実に原料を安定供給してもらうための方便ともいえる。
世間で沸騰する議論のなかには、自分の懐具合を十分点検せずに大法螺を吹いているのもあるし、欧米の目を気にするあまり姑息に過ぎて、矜持のなさにうんざりするのもある。
ただ自衛隊派遣の是非については、国民的結論の出しにくい命題であるには違いない。
報道されるイラク自衛隊の窮屈な活動をみていると、江戸時代の武士におもいが重なる。
豊臣家滅亡と同時に、それまで戦国武将の間にあった”もののふの道”は不要となり、帯刀は建前だけの遺物と化し、うかつに抜けばお家断絶の危機となる。
親から受け継いだ俸禄を遵守し、ひたすら寡黙にして何事も起こさぬよう心掛け、粛々と勤め上げて無事家禄を嗣子へ譲り渡すのが武士の習いとなった。
どう考えても、泰平の世に200万もの兵が要るわけがない。
これを解散せずに、士農工商の最上級におき、260年間国家ぐるみで養ったのである。
養ったほうも大変だったが、戦闘相手のないまま260年過ごす武士も気楽とはいえなかったであろう。
そのあたりどこか、演習に明け暮れる自衛隊の姿を彷彿とさせはしないだろうか? このまま260年が過ぎれば、さぞかし並列した評価をされそうだ。
このため、泰平の世にあった武士道がつくられた。
つまり朱子学を基礎においた武士道であり、そこでは徳を重んじる士大夫(文人・知識階級)が尊ばれた。
徳とはすなわち仁(おもいやり)・義(ひとのとるべき正しい道)・礼(礼節)・智(事実・道理を正確に知り判断するこころ)・信(うそのない信心)を指す。
儒教には、本来、忠君・尊王という考えはなかったが、野蛮な金に領土を奪略された南宋において、屈辱のなかで尊皇攘夷思想がうまれ、王のもとに統一された天下を尊び、その大義名分を明らかにする思想が完成した。
朱子学である。
幕府は士大夫に武の要素を加味し、主君のため忠孝の道に励み、死を賭して仕えるのを理想とした。
ただ、朱子学は現実より大義名分を重視するため、時代を経るにしたがって、空論にすぎぬという批判にさらされることになる。
冒頭、A氏の発言には、泰平の世でどう生きるかに悶々とした江戸時代の武士の気持ちが重なっているように思えたのである。