龍馬を殺害したのは京都見廻組の今井信郎(のぶお)といわれる。
彼は20歳で免許皆伝をうけた直心影流の達人で、幕府の剣術教授を勤めていた。
5尺8寸(175cm)の頭上から振り下ろす片手打ちは向かうところ敵がなく、師匠より禁じ手とされたという。
慶応3年5月、26歳のとき幕府より京都勤務の指令をうけ、10月、入京した。
幕府は京の治安を浪人集団である新撰組に依存するのを憚り、幕府の正規職員からなる京都見廻組を発足したのである。
彼らの多くは保身を専一とする江戸御家人集団で、勤王の志士と刃を交えることはなく、新撰組も呆れて相手にしなかったという。
しかし幕府にとって龍馬は、慶応2年1月22日、厭うべき薩長同盟を締結させた大立者で、しかも伏見奉行所の寺田屋襲撃にあたり、拳銃で返り討ちに会い同心2名を殺害された幕府お尋ね者である。
今井は京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敏の指令を受け、慶応3年11月15日、近江屋を襲撃し、風邪で伏せていた龍馬を惨殺した。
京都見廻組にとって、彼は指名手配中の凶悪犯であり、今井は職務を忠実に履行したにすぎない。
慶応3年10月14日、将軍慶喜は龍馬の発案になる大政奉還を奏上し、龍馬自身も徳川家を含む雄藩連合政権の腹案を持っていたといわれる。
これに対し、徳川家滅亡を絶対条件とし武力革命を主唱する薩摩の大久保・西郷は、苦々しい思いでこの経緯をみつめていた。
大久保らが龍馬殺害に一枚かんでいたといわれる所以である。
鳥羽伏見の戦いのあと、今井は新政府の尋問をうけ、本人も極刑を覚悟していたというが、意外にも龍馬殺害の罪は不問に付されて禁錮の刑となり、明治5年、榎本武揚らとともに赦免された。
彼はその後クリスチャンとなり、静岡の1寒村で荒地を開墾し村長まで勤め、77歳の天寿を全うした。
鳥羽伏見から五稜郭までの激戦にことごとく参加し、これを無傷でくぐり抜けたのも奇跡的であるが、龍馬殺人犯が大正の世まで長命を得たのも数奇な運命といえよう。