若い頃山が好きでよく登った。
ひとりうっそうとした森の中を歩いていると、まわりに何かいるような気配を感じた。
人ではない。
言葉に表しにくい山の精ともいうべきなにかである。
縄文時代の人口はたかだか50万である。
山に入ればまわりに人影とてなく、歩けるのは“けものみち”だけである。
われらの祖先は不気味なおもいを抱きながら狩猟採集の日々を送ったことであろう。
そしておそらく自分が抱いたように、山の精、森の精を感じていたに違いない。
さらに、大雨が降り大風が吹けば、山が怒り、天が怒ったと恐れおののいたにちがいない。
山川雨風など森羅万象すべてのものに神霊(精霊)が宿ると考え、神霊の怒りを恐れるところにわが国の宗教は興ったと思われる。
すなわちアニミズムとよばれる幼稚ではあるが純粋な思想である。
まず山神・風神・雷神・竜神・海神がつくられ、得体の知れぬものは物の怪(もののけ)と呼んで恐れた。
日本神道はこういう自然信仰から発生したもので、教義や教典はなく古事記や日本書紀などの古典を規範としている。
したがって天津神(あまつかみ)や国津神(くにつかみ)・祖霊(先祖の霊)を祀り、浄く明るく正しくを徳目としている単純明快な宗教である。
ところが仏教伝来以来、蘇我氏の尽力により仏教が国家宗教となったため、奈良時代にいたって神は仏の下におかれることとなった。
しかし平安時代になり神仏習合がおこなわれたおかげで、やっと神は面目をほどこし、仏と同格になった。
アニミズムの純粋さに対して、人間臭さのムンムンするのがシャーマニズムである。
つまり神霊との仲介役をする人物(シャーマン)が登場してきたのである。
シャーマンはトランス状態(忘我的状態)のなかで神霊に憑依され、自らの口を通して神霊の意思を告げたり、予言をおこなうようになった。
さらに地震や風水害があると、神霊の怒りをおさえる祈りをささげ、病人がでると祈祷もおこなった。
こうしてシャーマンは祭司・占い師ばかりか祈祷師・呪術師・医師にもなった。
史上名高い卑弥呼もまさにシャーマンであり、わが国では現在に至るまで、女性(巫女)がその役割を果たしてきたのが特徴である。
学生時代、友人の案内でシャーマンのお告げなるものをみる機会に出くわした。
神前に巫女がいて最初は夢中で祈っていたが、そのうちトランス状態となって、からだを大きく振るわせ始めた。
いわゆる憑依というものであろうか。
一見ヒステリーにもみえるし、てんかん発作のようでもある。
そばにいる人がなにやら話しかけている。
それに対してなにか答えているが、忘我状態のようである。
会話が途切れ、しばらく固まっていたが、まもなく我に返り、疲れきった風で終わったといった。
その間、彼女は眠ってもおらず、目覚めてもいない。
あたかも催眠術をかけられたような風であった。
後日、見聞したところによると、シャーマンの多くはなりたくてなったわけではないという。
わが子の死や離婚など狂気に近い精神的ダメージをうけたあと、気がふれたようになって幻視や幻聴を経験し、その後神霊の声を聞く(神がかり)ようになり、予知能力も自然に備わってくるという。
その後は、神霊を拝むことによってトランス状態となり、神のお告げを伝えたり、死者の魂がシャーマンのからだに入って、彼女の口を借りて喋ったりするようになるという。
トランス状態になると、神霊や死者の声は自然に聞こえてくるらしい。
この無意識状態については、個人的な無意識の世界よりさらに深層があって、そこでは自分と他人の壁がなくなり言葉を出さなくても相手の心が読めるというのである(ユングのいう集合的無意識)。
ところで、このトランス状態では大脳前頭連合野46野の活動が極端に低下しているという。
この領域は五感から得た情報や記憶を整理・統合(ワーキングメモリーと呼ばれる)して次の行動を筋肉末端まで伝える脳の最高司令部である。
一方、脳の深部にある視床では、通常、送られてきた大量の情報がいっぺんに前頭葉へ入りすぎないようにフィルターをかけて制御している。
ところがトランス状態になるとセロトニンが激増してこのフィルター機構が破綻し、活動の低下している46野に大量の情報を送りこむことになる。
このため記憶の整理が追いつかず、幻覚が出現したり憑依現象のおこってくることが予測されている。
いまだ科学の解明されていない世界であり、30年以上経った今も、鮮烈な記憶として消えることはない。