最近話題になっている前レバノン大使、天木直人氏の“さらば外務省”を読んだ。
そのなかで、駐米大使を務めた斉藤邦彦氏についての記述は興味深いものであった。
氏は外務省主流派のドンで、“ミスター外務省”と畏怖された人物だが、或る時、天木氏に
と語ったという。
天木氏はこの言葉ほど外務省の体質をあらわしているものはないと、にがにがしく言い放っているが、このくだりに来てふと、儒教社会の“士”に思い当たった。
儒教では基本的に身のみ労するは卑しいとされ、それは小人の仕事とされる。
これに対し、心を労するのは君子すなわち士であって、儒教では最も崇拝される地位である。
中国で清の時代、ある英国領事が清の高官をテニスに誘ったところ、高官はそういうことは使用人にさせましょうといって辞退した。
小人のまねをして、まわりから軽視されるのを恐れたからだという。
士農工商という言葉は紀元前から中国にあり、江戸幕府が身分制を固定するにあたり採用したのであるが、士の概念が儒教社会と全く異なっていた。
江戸幕府の士は武士であって、武道で身を労するのは当然である。
これをみた儒教国の中国・朝鮮は、江戸の士農工商はまやかしであると、一笑に付したという。
斉藤氏の発言は、“本当に有能なものは普段は何もしなくてよい。
仕事の大半は、ほどほど有能なものたちにやらせておいて、監視するだけでよい。
一方、無能なものはかき混ぜるだけで、後始末に困るから何もしなくてよい”という意図ではないか? 今の世の中に、心を労する士というものがあるとせば、それは自分だという自負が溢れているようだ。
この推測が当たっておれば、無論彼の論理は不遜のそしりを免れまい。
いかにも官のトップらしい発言ともとれる。
かつて、儒教国の士にも斉藤氏と同じ心境を共有したものがいたのであろうか? 斉藤氏が外務省を去った後も、省内にこの空気がなくなったとはいえまい。
彼の手掛けた直属の部下が、その後も着実に事務次官を歴任しているからだ。
それにしても我が国の“士”の方々、いざ鎌倉となれば、国境の最前線に拠って陣頭指揮をとって戴けるのであろうか?それがなければ、士でもなんでもない。
もうただの人である。