学会で6年ぶりに高知を訪れ、25年前、高知の東南、安芸市で青春時代を過ごした当時の仲間と旧交を温めた。
仲間から、初めて土佐に来たとき何が印象的だったか?と聞かれ、自分の歓迎会の席で、揃ってコップ酒で乾杯してくれたことと答えた。
はたちそこそこの看護婦にいたるまで、コップ酒である。
ちなみに、隣に座った子にいつから酒を飲んでいるのか訊ねると、小学校からだという。
父親からのおすそ分けで、すこしづつ味を覚えたらしい。
はたちまで酒の味を知らずにいた自分と重ね合わせ、特異な精神的風土を感じた。
県病院とはいえ、小こじんまりしていたせいで、病院職員とは家族的な付き合いとなり、一緒に食事をしたり、山へ海へと出かけた。
秋には土佐の名物、神祭を楽しませてもらった。
神祭は豊作を祝い神に感謝する祭りとして、各地区で逐次開かれる。
祭りの間、各戸の座敷には日本酒と皿鉢料理が並び、面識の有無にかかわらず誰でも自由に家々を訪ねてあるくのである。
おかげで、見も知らぬ家に上がりこんで随分ご馳走になった。
その席で隣にすわったひととも知り合いになり、交遊の輪が広がった。
今回、聞いたところによると、10年以上前からこの行事は廃れ始め、最近ではほとんどやらなくなったという。
家庭の主婦の重労働と不況下での経済的負担が原因であろうか。
あんな愉快な行事が消えていくのかと寂しい思いがした。
土佐には異骨相(いごっそう)がいて大変だと聞いていた。
気骨があり、反骨精神に富むが頑固で、容易に折れないという。
ところが赴任してみると、さほどのことはない。
もはや世の中が異骨相を必要としなくなっていたともいえる。
しかし、ひるがえってみれば、その昔奈良・京の朝廷から極悪人を流す遠流の国の扱いをうけて以来、長きにわたって、土佐人には中央に対する反骨精神が自然に醸成されていたのではないか?
さらに時代が下って、16世紀後半のことである。
四国は土佐の長宗我部元親によってはじめてひとつに統一されたのであるが、わずか10年で秀吉の軍門に下った。
プロの戦闘集団として訓練された秀吉軍と、一領具足(半農半武)の長宗我部軍では、勝負にならなかったらしい。
さらに、関が原では西軍についたため、長宗我部家は滅亡した。
問題はこのあとである。
家康は関が原の戦後、掛川5万石の小大名・山内一豊を土佐24万石の国持大名とした。
そのため、一豊はあわてて関が原浪人をかき集め、土佐に入った。
かなり質の悪いのも多かったらしい。
長宗我部侍の鬱屈は並々ならぬものであったろう。
ともかく、山内侍は進駐軍として、農民となった長宗我部侍を270年間押さえ続けたのである。
彼らの一部は郷士という低い武士身分を与えられ懐柔されたが、道路で逢えば跪かねばならず、斬り捨てごめんにも抗議できないほどの差別をうけた。
土佐人の反骨精神がこの郷士のなかで育まれていったことは容易に頷ける。
幕末、藩主山内容堂の公武合体に反対し、尊皇攘夷に走った土佐勤王党は、郷士身分のものが多かった。
彼らは佐幕的保守を堅持する藩の迫害に耐えかね、次々に脱藩していったが、藩の庇護はなく、山野や治安の悪い京の街で落命したものは少なくなかったという。
それにもめげず、薩長の圧倒的な勢力に気おされず活躍した坂本竜馬や中岡慎太郎は、気骨溢れる異骨相であったといえよう。
明治後、土佐が自由民権発祥の地となり、民権の祖国とよばれるようになったのはこの強烈な差別社会を経たからであり、その中心的人物が、山内侍(上士)の板垣退助、福岡孝弟であったことを思うと、実に感慨深いものがある。