文久2年、江戸に幽居する山内容堂は片腕と頼む吉田東洋が暗殺され、土佐勤王党のへの憎悪を募らせていた。
もともと彼は、幕府のおかげで奇跡的な幸運を得て藩主となった経緯がある。
幕府には人一倍恩義を感じていた。
したがって時流が倒幕に向かっているのをなんとか阻止し、公武合体で難局を乗り切ろうと画策した。
ところが次期将軍に慶喜を推挙したとして、慶福を推す井伊大老に謹慎を命じられたため、憤慨した彼は自ら隠居を申し出、3年間品川の別邸に幽居の身となっていたのである。
東洋の死後、土佐藩では尊王攘夷を唱える勤王党が事実上実権を握っていたが、ほどなく謹慎が解けた容堂は、文久3年8月18日の政変で佐幕派が息を吹き返すと、勤王党を解党に追い込み再び藩政を掌握した。
しかし、自藩の脱藩兵・坂本龍馬が薩長同盟を成立させたことで倒幕への流れは決定的となり、容堂は手をこまねいたまま、薩長の躍動を見守るほかなかった。
ところが慶応3年のある日、腹心・後藤象二郎が、“政権を朝廷に返すことによって徳川家は一大名となるも、新政府内での発言力は温存できる”という妙案を携えてやって来た。
しかもこの案は薩長が狙う討幕の論拠を失わせる劇的効果をもっていた。
無論真の立案者は厄介者の龍馬であり、それを伏せての建言である。
小躍りした容堂はすぐさま将軍・慶喜に建白。
ただちに大政奉還が成立した。
薩摩の悔しがるのを見て容堂は久しぶりに溜飲を下げたに違いない。
一発逆転を狙った土佐の巻き返しではあったが、2ヵ月後には薩摩主導で小御所会議が開かれ、王政復古の大号令が発せられた。
この会議に徳川氏は招かれておらず、容堂のみが幕府を擁護する形となった。
結局、会議は岩倉具視ら親政・倒幕強行派に押し切られ、容堂は失意のうちに帰郷した。
翌慶応4年に始まった戊辰戦争に、容堂は土佐藩兵は加わらないよう厳命したが、指揮官・板垣退助はこれを無視し新政府軍に参加した。
もはや藩主の威光では倒幕への勢いは止められなくなっていたのである。
鳥羽伏見の戦いのあと、堺は土佐藩の管理下に入った。
その堺にフランス軍艦の水兵が上陸して不届きな行為をした咎で、土佐藩兵が水兵11人を殺害した。
フランス公使ロッシュは激怒し、新政府に賠償を迫った。
このとき容堂は藩士20名に切腹を命じ、こう語ったという。
「みかどが我が国を開花しようとする御方針を、わが部下が妨げたことを思うと心が痛みます。私は日本全体でなく土佐藩のみがこの事件の責任を問われることを願います。」
容堂が当時の外国政府要人から高い評価を得ていた一端を垣間見るおもいがする。
土佐藩としては坂本龍馬、中岡慎太郎の死が痛手となり、新政府内での発言力は大いに削がれた。
維新後、容堂には名誉職が与えられたが馴染まず、1年で辞職。
東京にいて酒と女と詩作に耽り、憂さ晴らしの余生を送った。
日に3升の大酒をして、自らを鯨海(土佐湾)酔侯(酔っぱらい)(げいかいすいこう)と称した。
当時の東京日日新聞に彼の豪放磊落な生活が紹介されている。
容堂公は非常に疳の強い殿様で、眉をピクリピクリやっておった。
多くの取り巻きをつれ芝居見物、市村座を買い切って見物することもあった。
当時の権十郎であった9代目団十郎がひいきで、団十郎の自宅にも遊びに来た。
芸者遊びにしても料理屋などには断じて行かない。
橋場にあった寮に橋場の美妓を呼びつけて大杯でグビリグビリやりながら一緒に遊んだ。
芸者が前に座っても今の華族の殿様のように手を握ったり、交番の巡査みたいに根掘り葉掘り女の身元を洗うような安直なことはせず「ああさようか」といった按配だった。
新橋・柳橋の酒楼で豪遊して12人もの愛妾を囲い、家令にいさめられると、
「むかしから大名が倒産したためしがない。俺が先鞭をつけてやろう」
と豪語したという。
新政府の役人が芸者の誰それに目をつけていると聞くと、すぐに手を打ち横取りして溜飲を下げたというのも有名な話しである。
大名の地位を失い、下級武士たちに天下を乗っ取られた無念さが偲ばれるエピソードである。
維新後、不遇を託った容堂であるが、晩年間近の真摯な恋愛が彼の人生に仄かな彩を添えている。
相手は遊郭柳橋の芸妓お愛である。
才気溢れるお愛に惚れ込んだ容堂は明治2年、彼女を身請けした。
「お前を先に死なさない。生涯連れ添うぞ。」
とまで言って熱愛したが、わずか3年しか続かなかった。
明治5年、脳卒中のため46歳の生涯を閉じたのである。
維新の犠牲者の一人といえなくもない。