桓武天皇は不遇の青春時代を経て45歳でやっと権力をつかんだ人物らしく、強いリーダーシップで反対派を粛清し、独裁体制を確立しました。
彼は、奈良仏教が国立の大寺の中で仏教論争に明け暮れ、国民のほうへは見向きもせず、しかも宮廷に入り込んだ僧道鏡が天皇の地位を狙おうとした事件に激しい憤りを感じていました。
桓武天皇と平安京
さらに度重なる身内の不幸や、疫病、凶作などが相次いだため、彼は意を決して平安京へ遷都することにします。
いち早く平安京へ入った彼は自分の思いのままに独裁政治を開始し、官寺のいっさいを奈良に閉じ込めて出さず、唯一最澄の比叡山寺を官寺としました。
これに先立つ743年、墾田永年私財法が発令されました。
これはいままでのように強制的に土地を貸し付け重税をとったのでは、労働に耐えかね土地を逃げ出す農民が後を絶たないため、自分で開墾した土地は本人のものになるという法律に変更したのです。
このため、貴族や寺社は地方豪族(地元農場主)と手を組み、口分田を逃げだした農民たちを使って、新たな田畑の開墾に夢中となりました。
そして貴族は政治的圧力で税金逃れをし、寺社は朝廷の信仰を盾に税金を免れようとしました。
さらに彼らは、荘園からの取立て分を国家に入れず自分の懐に入れたため、公地公民制は有名無実となって律令制は崩壊が進み、世の中は徐々に荘園制の社会に移っていきます。
荘園と国衙
朝廷から派遣された国衙の役人は当然のことながら、荘園領主が国に黙って開発した領地に目をつけます。
なにかとちょっかいを出して税を取ろうと画策する国衙役人に対抗して、荘園領主は自らの領地を中央の有力寺社・貴族(権門)に寄進して一定の年貢を支払って庇護をうけ、自分の権益をはかるようになりました。
荘園と国衙領の比率は国ごとで違っていましたが、伊予には荘園よりむしろ国衙領が多かったようです。
律令制からあぶれた浮浪人といわれる人々の多くは、この荘園領主のもとに身を寄せて働くようになりますが、瀬戸内海島嶼部では、海賊となって付近を航行する船を襲うものも現れてきました。
藤原道長・頼通らが独裁者となった摂関時代、貴族の間でもっとも人気の高かったのは、意外にも播磨(兵庫)と伊予でした。
これは播磨と伊予の国主(受領)がもっとも収入がよかったということです。
人気の伊予
国主(受領)はもとは税金を徴収するため朝廷から派遣されたのでしたが、朝廷の力が弱まると、名主(有力農民)を使って勝手に自分の私有地を経営し始め、自分たちで税金を決めるなど横暴な行為をとるようになっていきました。
そして4~6年の任期中に賄賂を溜め込んで都に帰るのが通例となりました。
それだけに少しでも条件のよい国主(受領)の地位を得るため、貴族はあらそって、道長・頼通らに賄賂攻勢をかけたといいます。
こうして摂関期と同様、院政期においても上皇の側近は争って播磨と伊予の受領になろうとしたようです。
当時、国主(受領)は3位より下(公卿以外)のものが任命されていたため、4位のトップがつねに播磨守と伊予守になったといいます。
依然として伊予の人気の高かったことがうかがえます。
それほど人気が高かった伊予の荘園ですが、その特徴は、最大の産物が塩と海産物(かつお・あわび・海草)であったことです。
また荘園は年貢を運ぶのに便利な瀬戸内海の島々、道後平野の海岸沿い(伊予郡付近)に多く、当時伊予は全国的に最も高い生産力をもっていたようです。
かつて都から伊予へは南海道(古代の官道)ができていましたが、この幹線道路は平安時代に入って次第に廃れはじめ、年貢や国衙領の所当官物は瀬戸内海の水運を利用した海上ルートに取って代られました。
伊予の島嶼部の荘園には、天皇家の所有するものが多かったといわれています。
またこの時期、国主(受領)による租税の請負体制が軌道にのり、国主は都の近くの琵琶湖や大津に蔵を建てて国で集めた物資を保管し、朝廷や寺社に要請された時だけ物資を納めるようになりました。
そしてこれらは蔵の傍で開かれる市庭で他の物資と交換され、朝廷が必要とするものを揃えたのです。
都に運ばれた調としての各地の特産物は塩・絹・布・馬・鉄のほか海産物(かつお・あわび・酒・海草)などで、当時としてはなかなか豪華な品揃えといえます。
桓武天皇と最澄
桓武天皇は遣唐使として帰国した最澄に最高級の待遇をし、国家の仏教師範の地位につけました。
しかしその後、留学生身分の空海が中国真言密教の第1人者恵果に免許皆伝を許され帰国したため、一躍宗教界のスターとなり、平安貴族の熱狂的支持をうけることとなりました。
そして嵯峨天皇より高野山を賜った空海は、金剛峰寺を根本道場として真言宗を開き、その後鎌倉時代にいたるまで、密教は仏教界の主流となっていきました。
平安末期になると、荘園管理者(荘官)や開発領主、農民有力者らは団結して武士団を形成し、清和源氏や桓武平氏など皇族の血をひくものを棟梁に仰いで一大勢力を築きました。
このうち平氏一族は武装貴族として中央政界に進出し、貴族を追い落として知行国の支配を独占したため、反発した多くの貴族から源氏待望論が噴出し、源頼朝が登場してくるのです。
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