よきライバル、コッホとパスツール
1870年、フランスのナポレオン3世によるドイツ統一妨害工作をきっかけに普仏戦争が勃発。
鉄血宰相ビスマルクが牽引するドイツ連邦軍はフランス軍に圧勝し、翌年パリは陥落、ドイツ帝国が誕生しました。
ちょうど期を一にして、細菌学の世界でもドイツ、フランスは互いに覇を競いあっていました。
コッホとパスツールはその代表的存在でした。
このよきライバルが後世そろって“近代細菌学の開祖”と敬愛されるようになるのです。
1854年、わずか32歳でリール理科大学の学長になったパスツールのところへ教え子の父親がやってきました。
アルコールの醸造をしているのだが、樽によって美味いアルコールと酸っぱいアルコールができるので、その原因を調べてほしいというのです。
早速醸造所におもむいたパスツールは、樽に溜まった酒石酸の性質を調べようと顕微鏡で観察したところ、驚くべきものを発見しました。
パスツール:酵母と桿菌
美味いアルコールの樽には黄色い卵のような粒の集まりが見えました。
いわゆる酵母です。一方、酸っぱいアルコールの樽には黒っぽい棒状のものが見えました。
当時、生物の死体にウジがわくのは死体が分解して自然にウジが発生すると信じられていた時代でした。
彼はこの黒っぽい棒状のものは微生物ではないかと考えたのです。確かにそれは桿菌でした。
彼はそれを証明するために特殊なフラスコ(有名な白鳥の首フラスコ)を用意し、自然発生は起こり得ないことを証明しました。
細菌などというものが知られていない時代に微生物の存在を証明したこと、さらにそれが病気を引き起こす病原体である可能性を示したのは、科学史上画期的なことでした。
こうしてワインやビールの発酵が酵母菌の働きによることを確認し、アルコールや牛乳などが腐敗するのを防ぐため、60度で数十分加熱する方法(低温殺菌法)を開発しました。
この方法は現在にいたるまで利用されており、彼の名をとってパスチュリゼーションと呼ばれています。
コッホ:プレゼントの業績から主任へ
ちょうどその頃、ドイツの片田舎で開業医をしていた若きコッホがいました。妻エミーは、単調な生活に塞ぎ込みがちな夫を慰めようと、コッホ28歳の誕生祝いに顕微鏡をプレゼントしました。
診療の合間に顕微鏡を見つめていたコッホは、ヒツジの疾病である炭疽病に興味を抱き、死んだ羊の血液のなかに棒状の物体(桿菌)を発見しました。
この血液をネズミに接種したところ翌日ネズミは死亡しました。
その原因菌について自宅の実験室で試行錯誤したのち、それを培養することに成功しました。
そしてその病原体をネズミの尻尾の傷口に付着させたところ、ネズミは死亡しました。さらに死んだネズミの脾臓に桿菌が繁殖しているのを確認しました。
この桿菌は低温では胞子になって休眠しますが、動物の体内に入ると突然桿菌に変化する性質をもっています。
したがって炭疽病の流行が治まったかのように見えたのち、突然再燃する理由はここにあるということに思い至ります。
1876年、コッホは学会での公開実験でこの成績を再現し、ひとつの微生物(細菌)がひとつの病気を引き起こすという科学史上初の発表をおこないました。
さらに彼はこのなかで“コッホの3原則”といわれる重大な細菌学の基本原則を確立しました。
田舎の無名医師がおこなった発表に学会場は大騒ぎになったといいます。
1880年、彼は業績を認められて国立保険庁の主任となり、研究生活に没頭することになりました。
パスツール:微生物から狂犬病ワクチンへ
一方フランスのパスツールは、微生物が動物や人間の身体にも感染するという結論に達し、ジョゼフ・リスター(スコットランド)の外科手術における消毒法の開発を助けました。
また、弱毒化した微生物を接種することで免疫を獲得できるという発見は、ワクチンの予防接種という形で人類に絶大な恩恵をもたらすことになりました。
こうしてコッホが発見していた炭疽菌に対するワクチンの開発に成功し、1881年、公開実験でそれを証明しました。
当時、炭疽病は家畜を全滅させるほどの猛威をふるっていましたので、このニュースは世界を席巻しました。
その後、彼は犬を用いて培養実験を行い、狂犬病のワクチン開発にも成功しました。
実は狂犬病の病原体はウィルスであり、当時の技術ではその姿をとらえることが出来ませんでした。
しかし病原体が見つからなくても中枢神経が侵されることに着目し、神経組織からワクチン作成に取り組みました。
そして1885年、ついにワクチン開発に成功し、ヨーロッパ中の狂犬病を救ったのです。
コッホ:結核菌の研究とノーベル賞
炭疽菌の発見者であるコッホは、パスツールが自分の業績をまったく採りあげていないことに憤慨しましたが、すでに細菌の純粋培養法に成功し、結核菌の研究に取り組んでいました。
しかし結核菌は染色が困難な上、増殖も遅く、研究は遅々として進みませんでした。
それでもコッホは「ネバーギブアップ」をモットーに、結核が感染症であるという信念をもって実験に臨み、苦心の末、2種類の染料を使ってやっと結核菌の染色に成功しました。
ついでその培養と菌の刺入により結核病巣を証明し、1882年3月24日、ベルリンの生理学会でその成果を発表しました。
出席した聴衆は驚天動地の内容に言葉を失ったといいます。
当時結核は人類にとって最も恐れられた“死の病”であり、ヨーロッパでは7人に1人が犠牲となっていました。
それにもかかわらず原因については遺伝や栄養失調が予測される程度で、全くお手上げの状態でした。
彼はこの業績でノーベル生理学・医学賞を受賞しましたが、後にこれを記念して、3月24日は“世界結核の日”と定められました。
ついで彼はヨーロッパに広まり始めたコレラの研究に取り組み、1883年コレラ菌の発見に成功し、細菌学の父と呼ばれるまでになりました。
二人がおかした失敗
ところで、彼らはお互いを意識しすぎるあまり、生涯に一度ずつ大きな失敗を犯しました。
パスツールは炭疽菌のワクチンを開発したのち、世界中の農場からワクチン提供を依頼されました。
このとき、彼は十分な準備、量産体制を整備しないまま品質不良ワクチンを増産したのでした。
このため、多くの家畜がその犠牲になるという悲劇を生むことになりました。
一方のコッホも重大な過ちを犯しました。
現在も使われている「ツベルクリン」は結核に罹ったことがあるかどうかの診断には役立ちますが、治療には向いていません。
ところがコッホは結核菌のワクチン開発に躍起となった結果、結核菌を不活化した「ツベルクリン」に治療効果があるのではないかと期待し、実験データが揃わないまま、有効であるという発表をしてしまいました。
このため偉大なコッホの言葉を信じて「ツベルクリン」を治療に用いた結核患者の多くは悲惨な結果を迎えることになりました。
しかしながらこれらの失敗を差し置いても、彼らは人類に多大な恩恵をもたらした点で、特筆されるべきでしょう。
パスツールは「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」といって、コッホをライバル視しましたが、この強烈な対抗意識があったからこそ、お互い後世に燦然と輝く業績を残せたのではないでしょうか。