成功体験をしたものは、その経験を忘れることができない。一概に悪いこととは言えないが、他を犠牲にして得た成功体験は、はやく忘れるべきであった。
日清、日露戦を制した我が国の軍部は、国民の狂騒をよそに、今後の身の振りかたに悩んでいた。
確かに今は英雄だが、いつまでも興奮が続くわけではない。戦争あっての軍人だから、戦争が終われば用済みである。
つまり、戦争の英雄も一晩明ければ、ただの失業者にすぎない。
国民のためといって、税金の半分を戦費に充てていたのだから、一刻も早く軍事費を減らさねばならない。しかも戦争に勝ったとはいえ、得たものは余りに小さい。一等国になったと言われても一向に生活は楽にならず、国民は不満であった。
そんななか、国民に犠牲を強いても軍人であり続けるには、国防だけでは民衆は納得しない。新たな覇権を求めて海外に出ていかねばならない宿命がある。
たび重なる不況の連鎖
ところが、日露戦争から10年を経て、ヨーロッパでは1600万人もの死者を出した第1次世界大戦(大正3年~7年)が勃発するのだが、我が国の軍部は参戦とは名ばかり、大した軍事行動のないまま終戦を迎えた。
ほとんど無傷で終えた我が国は、製造業が活況を呈し一時的に大儲けするのだが、ヨーロッパが戦後復興を遂げるや、逆に買い手を失い不況に陥った。
さらに大正12年(1923年)、東京を中心に死者10万人を出す関東大震災に見舞われ、不況に拍車がかかった。
それから3年後、昭和元年に至るや、当時の大蔵大臣の不用意な発言から金融恐慌を招き、経済界は大いに打撃をこうむった。
さらに決定的だったのは、昭和4年(1929年)の秋、アメリカで株価大暴落が発生、世界恐慌を引き起こし、その余波は我が国をも直撃した。
このため、企業の倒産と250万人もの失業者が発生し、大学は出たけれど3分の1は職に就けないという深刻な不景気に陥り、とくに農村では生活が困窮し、社会不安が高まった。
それにもかかわらず、財閥はドル買いにより金輸出再禁止後に巨額の利益を得たため、国民は政党政治に強い不信を抱くようになり,その反動から軍部への期待が徐々に高まる状況にあった。
満州国の建国
ところで当時の国内では、日露戦争で獲得した満州における権益(南満洲の鉄道・鉱山開発を始めとする権益)は当然のものであり、満蒙(満州および内蒙古)は日本の生命線というのが共通の認識であった。
丁度そのころ、政府がロンドン軍縮条約を天皇の許可をとらず調印したことから、「統帥権の干犯」と野党、軍部から突き上げられた。軍部はこれを都合よく解釈し、軍部は政府から独立しているという見解をとり始めるのである。
こうして昭和6年(1931年)、満州にいた関東軍は政治不信に陥った国民感情を利用し、政府や陸軍本部に相談なく、独断で南満州から満洲全域に侵攻、一気に満洲国を建国してしまった(満州事変)。
マスコミの迎合
明らかな侵略行為であったが、関東軍は、純粋な愛国心に基づくなら、たとえ暴力でも正当化されるという国内の空気をうまく利用した。
結局、議会も関東軍の暴走を「やむをえない」と黙認せざるを得ず、これに呼応するようにマスコミも「守れ満蒙、帝国の生命線」と咆哮し、彼らの軍事行動を後押しした。
こうして国民は、満州事変を暗闇にさした一筋の光として受け容れたため、これに気をよくした関東軍は、結果さえよければ何でも許されるとの信念のもと、中国侵攻という暴走を始めてしまった。
このとき、マスコミがこの侵略行為に正面から取り組まず、大衆迎合的な人気取りに走ったことが、のちに禍根を残すこととなった。
五・一五事件の評価
この満州事変に先立って、海軍の若い将校たちは、ロンドン海軍軍縮会議における若槻禮次郎ら政府の弱腰外交に不満を募らせていた。さらに、地方経済がどん底まで冷え込み、子女の人身売買が横行するに至ったのは、政治家や財閥の腐敗が原因だと断定した。
こうして、満州事変の翌年、海軍急進派の青年将校たちは怒りの矛先を満州進出に否定的な犬養総理に定め、昭和7年(1932年)5月15日首相暗殺事件を引き起こした(五・一五事件)。
事件後、世間は当然のこととして犯人グループを厳しく糾弾していたが、現役の総理大臣殺害という国家的大罪にもかかわらず、世論に少しづつ変化がみられるようになる。
マスコミは世間の動静を見ながら、海軍将校たちの行動は腐敗した政治家、財閥を懲らしめ、人民の困窮を救おうという義憤に発しているのであって、私利私欲は微塵もないという論調をとった。
これに国民感情が動いた。その憤りは自分たちも同じであって、日露戦争以来の海軍に対する尊敬の念もあり、徐々に彼らは赤穂浪士や幕末の志士のごとく憂国の志士という扱いとなった。
事実、その後かつてないほどの助命運動が沸き起こり、青年将校たちは全員が事件後6年以内に自由の身となった。
しかしこの事件により日本の政党政治は衰退の一途をたどり、軍部の発言力は政党のそれをしのぎ、さらに強力なものとなった。
マスコミの誘導いかんで、関東軍も海軍将校も一夜で英雄となる危険を、このことは示している。
軍部主導の政治へ
五・一五事件のあと世の中は大きく変わった。
今までの政党による政治から、軍部の主導する政治に変わったのである。それは政党政治に見切りをつけた国民が望んだ結果でもあった。
国民は生活の困窮の原因を、政治家や財閥の腐敗に起因すると信じて軍部に新しい政治体制を期待したが、現実には不景気が突然胡散霧消するわけはなく、町には企業倒産と失業者が溢れた。また農産物の価格暴落で農村の困窮はさらにひどく、身売りや間引きが常態化した。
そんななか、陸軍には地方の貧農の出身者が多く、この惨状の原因は政治の仕組みに問題があると考えるものが多かった。なかでも、地方の窮状をよく理解したのは、陸軍でも比較的地位の低い下部将校たちであった。
当時の陸軍将校は、陸大出身のエリートのみが政府や経済に関与できるとする統制派と、エリートコースから外れた下部将校に二分されていた。後者は天皇のもとで平等な社会(天皇親政)を実現すべきという非エリートの青年将校たちで、皇道派に属していた。
二・二六事件の発生
皇道派の将校たちによれば、国民の困窮の原因は、天皇の周りにいて私利私欲にふける元老重臣(君側の奸)たちが天皇をそそのかしているためである。したがって彼ら「君側の奸」さえ討てば、天皇親政が実現できると考えた。彼らは国家社会主義を奉じる北一輝の思想に影響を受けており、テロをも辞さず、武力による直接行動を是認していた。
当初は統制派の首脳も、この青年将校たちを政府への圧力として利用していたが、自分たちと政府との関係が良好になると、彼らの動きがかえって目障りとなり急遽満州へ派遣し、中央から遠ざけることにした。
これに危機感を覚えた皇道派将校たちは、満州派遣の直前、昭和11年(1936年)2月26日の未明、部下の下士官兵1483名を引き連れ、昭和維新をスローガンにクーデターを決行した。
彼らは首相官邸や朝日新聞社などを襲い、陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠。海軍大佐の松尾伝蔵、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤真、教育総監の渡辺錠太郎たち9人を暗殺した(二・二六事件)。
そのうえで陸軍首脳部を通じ、天皇に昭和維新の実現を訴えた。
しかし、案に相違して天皇はこれを拒否。むしろ信頼を寄せる政府要人たちを暗殺したことに激怒し、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧するよう命じた。
二・二六事件の評価
さて、この大事件におけるマスコミの対応である。
二・二六事件のあった午前7時には内務省より、記事の差し止め通牒が発せられた。
しかし総理大臣の命を狙うという国家的大事件のため、国民に知らせぬわけにはいかず、夕方になって当局が発表するものに限り報道を許可するということになった。
五・一五事件以降、実権を握った軍部は、自分たちに有利な情報しか流さなくなっている。
武器をもった軍が無防備の民衆、マスコミに圧力をかけ、ものを言わせない図である。今のミャンマーをみるとそれがよく分かる。
国内の新聞は軍部批判を避け、政党の堕落に対する打開策や、事件後の賢明な対応を期待すると論評した。
読売新聞は「政党は泰然として腰を抜かし、コトリともせず」と、怯えて何もできない政党を皮肉る一方、明らかに軍部の目を気にしているのが分かる。
一方、海外メディアもこぞってこの事件を大きく採り上げたが、その報道は国内メディアと異なり、あくまで事実に基づき、公平性を重視している。
ニューヨークタイムズは、貧しい農家出身の青年将校が、財界と癒着を行なっている政治家を打倒しようとした結果、発生した事件と報道した。
ロンドンタイムズは、軍部の意図に沿った政府の樹立をめざした事件とやや誤認報道しているが、ワシントンポストは、軍部の徹底した検閲によって確信ある情報が得られないと、軍部を批判的に伝えた。
ミャンマーの国際報道と国内報道を較べていると、戦時下でのマスコミ報道は今も昔も変わらない。
それにしても、コロナの蔓延するなかでのオリンピック開催には、まるで戦時下のごとき不穏な気配が漂う。
今や、コロナ禍における政府の態度、それを報道する日本のマスコミにも世界の目が注がれている。
ときに、自分の政府方針とは異なるものの、堂々と持論を展開する外国のマスコミ報道に胸を打たれることがある。
マスコミの矜恃とは、じつにその国家の品格と示すものだと思い至った。