天は中国に源を発する。
ひとは天命に従わねばならず、これに逆らうとお天道さまが見ていて、天罰を下すという。
西郷の「敬天愛人」、漱石の「則天去私」もこれから来ている。
“孟子”に「仰いで天に愧(は)じず、俯して人に愧(は)じざるは、二の楽しみなり」とある。
その昔、「仰いでは天に恥じず、伏しては地に恥じず」という掛け声は、孟子を愛読した江戸期の武士の間に生まれた。
廉恥心と言い換えることもできよう。
応仁の乱以後150年に及ぶ戦国時代、武士の多くは殺人目的で日本刀を手に戦場に臨んだのである。
竹やりで喉を突かれ、投石で顔の潰れた死体、首のない死体が散乱する戦場に立ちすくみ、神経症で潰れていった者は少なくなかったであろう。
死ぬのが怖くない者などいるわけがない。
そして明日は我が身という恐怖の日々を送りながら、今更逃げ出せない我が身を嘆き、どんな汚い手を使っても自分の生き残りを謀った。
一部の例外を除いて、倫理が脇に追いやられたのは当然であろう。
殺人行為が不要となった平和な江戸の初期、山鹿素行は今後の武士は儒教に従って生きることを説いた。
民衆に対し、道徳的で模範的な態度を示すことに武士の存在意義があるとした。
そして「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常の徳を「仁義」「忠義」「信義」「節義」「礼儀」と言い換え、「義」を最上のものとした。
彼は林羅山の弟子である。
もともと朱子学の徒であったが、主君に無条件に従い、家禄を死守することに疑問を抱き、孔孟の儒学に習熟した結果、従うべきは儒教道徳であり、これに反する場合、主君を見捨てることもありうるとした。
このため、林家に罷免され、赤穂に流された。
したがって、のちの赤穂浪士による討ち入り事件の発端は、朱子学の眼目である主君への忠義ではなく、吉良家にはお咎めなしという不条理に対する憤りが源泉となっている。
彼らは義に殉じたといえる。
ペリー来航以後の幕末期、武士道は水戸を中心に沸騰した。
その発露は尊王攘夷という情熱である。
会沢正志斉や藤田東湖によれば、仰ぎ見るものは将軍でなく天皇である。
天皇のもとに臣民が一致団結し、死を賭して外国勢力を排除しようというものである。
ここにおいて、武士は260年ぶりに抜刀し、戦闘者になったのである。
儒教道徳を身に付けた幕末の武士は、戦国期の武士とは異なる。
叡智を得るべく勉学に励み、民衆には仁の心で接し、何より死を恐れぬ勇気が鼓舞された。
彼らは天皇を仰ぎ、義に殉じることを厭わない。
そのため真の義とはなにか、自分の行為が義に反していないか、公のために尽くしているかを自問自答した。
ここに、“孟子”の「仰いで天に愧じず、俯して人に?じざる」の精神が大いに称揚されたのである。
天地に恥じぬ心意気は武人にとって存在価値を問われるほどに重いものとなった。
このため武家では少年期から義と並んで廉恥と勇気を教え、7歳にして切腹の心得を説いたという。
彼らは常に死を意識しながら行動した(守死)。
そして”花は散り際、武士は死に際”と念じながら、ひとたび、今が死に時と判断すれば、実にあっけなく、命を絶っていったのである。
この廉恥という一点において、幕末武士道は史上、際立った光芒を放っている。