京都での学会の帰り道、会場近くの龍安寺を訪れた。30年ぶりである。
枯山水で著名な方丈の前庭に数十人が足を止めて座り込み、ほとんど無言のまま見入っている。
旅の疲れを癒そうとするもの、石庭の白砂に描かれた観念的とも思える文様に作者の意図を見出そうとするもの、枯山水に禅の公案を感じようとするもの、モノトーンのなかに侘び・さびの風情を感じるもの、様々のおもいが錯綜しているようであった。
自分も庭先に座し、しばし石庭を眺めていると、意外なことに気がついた。30年前の記憶が少しずつ戻ってきたのである。あの時、石庭は大きく広かった。
白砂に刻まれた筋目は深く切り込まれており、処々に配置された石はするどく屹立していた。石の配置もじつに見事であった。はじめて見る枯山水におぼえた感興が、わずかではあるがよみがえったのである。
それに比べればどうであろう。いま眼前の文様は浅く平面的で、配置された石も歳月を経たせいか、ひとまわり小さく見える。石庭全体がこじんまりしてみえるのである。
光線の具合でそう見えるのであろうか?二度目という余裕からそう見えるのか?老いが、ものを平面的にしか感じさせなくするのであろうか?同じものをみても、時間は無情にもひとの感覚を変化させずにはおかない。
感覚には研ぎ澄まされていく部分と、明らかに退化し鈍化する部分があるようだ。ひとに対する感情はさらに多様に変化する。
同じ人物を素晴らしく感じることもあれば、時を経て失望したり、あるいは憎悪の対象になることすらある。逆に、意外な実像に接し、一転尊敬や愛情を深めることもある。
私たちは目にふれるものを正しく把握しているつもりになってはいるが、あくまで感情でとらえているのであって、常に実像を見ているわけではない。
われわれは大いなる誤解のうえに生きているのだと、あらためて思ったことである。