明治10年、西南戦争が勃発し、中津藩(大分県)からは増田以下同志64名が薩軍に参加していた。
半年後戦局は決し、薩軍が可愛嶽から鹿児島に落ち延びようとしたときである。
隊長の増田が同志に向かって言った。
「薩人は故郷鹿児島で死のうとしている。われわれ中津隊の役目は終わったといっていい。諸君はもはや薩軍に同調せねばならない義理はない。自分をおいてここより故郷に帰れ。」
自分一人残ると聞き、不審がる同志に彼は言葉をつづける。
「自分は隊長となったために、西郷という人格にしばしば接した。諸君は幸いにも西郷を知らない。自分だけが職務上、これを知ったが、もはやどうにもならぬ。」
といって落涙した。
中津隊同志は困惑し、さらにそのわけを問うた。
「われ、ここに来たり、初めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ。」
5万の政府軍を相手に鹿児島の城山に立てこもった僅か300余名の薩軍も、おなじ気持ちで運命を共にしたことは想像にかたくない。
西南戦争は西郷を仰ぎ見るものたちの集団自決という印象すら感じられる。
西郷の人柄が偲ばれるこのエピソードに心動かされぬものは少なかろう。