インターネットで誘われ見知らぬひとと集団自殺を図るという。
いかなる情報も安易に入手できる社会の生んだ悲劇といえるが、“死にたい”と“死ぬ”には大きな隔たりがあって、“死にたい”ひとが集まってはじめて、思い切って“死ぬ”へ近づくようにおもわれる。
この人たちが死後のことまで考えているかどうかは承知しないが、臨死体験をして死後の世界を見たという人がいるからこそ、死後も世界はあるらしいということになる。
さらに、死んでもこころだけは残るだろうという期待が死後の世界の存在を後押ししている。
こころとは、眼の前の出来事に対する印象が脳の中に蓄積されたものであろうが、こころが胸のなかにあるような錯覚をもつのは、ハートの英訳が心臓とこころを一緒にしてしまったためであろうか。
当然のことながら、こころは脳のなかにあって、瀕死の状態でも自在に動いているようだ。
外見上は死んでいても、脳が働いているうちは、こころなるものがいろいろな経験をすることが、息を吹き返した臨死体験者から報告されている。
たとえば、体外遊離現象、トンネル現象やそれにつづく光現象、走馬灯現象などである。
体外遊離現象は脳の作り出したこころがからだを離れ、体外を浮遊するというものである。
臨死体験者はしばしばこころが体外遊離して、瀕死の自分とそこに集まった医師や家族の様子を冷静に観察しているという。
場合によっては、何キロも離れた知り合いのところへも出かけ、様子を見て帰ってきたというのもある。
この体外遊離は臨死患者ばかりでなく、特殊な状況(極端な飢餓状態など)におかれた健康人にも経験されることがあるという。
この奇怪な現象は、こころが脳を離れて出たり入ったりすることができるという論拠となっている。
マイケル・パーシンガー(カナダ)によれば、こころ(魂)の主座は側頭葉にあり、側頭葉はちょうどハッチのような役目をしていて、臨死体験は魂が側頭葉から抜け出ていくときおこるのではないかという興味深い予測をしている。
トンネル現象は、死に瀕して脳の血液の流れが悪くなる結果、視野が狭くなってまわりが暗くなると説明されている。
また、トンネルを抜けたあと、暗くなるはずなのに、なぜ明るい世界に出るのかについては、放電現象が視野を受け持つ後頭葉までたどり着いたとき、眩くなるのではないかともいわれている。
さらに、人生パノラマ現象は、極めて短時間に過去の思い出が走馬灯のように湧き上がってくる現象をいい、多くの臨死患者が経験している。
サバデラ・アギラルによれば、この現象は大脳辺縁系の記憶検索装置が機能不全になったために出現するのではないかと予測されている。
しかし、これらの現象は、いずれも臨死体験においてみられたのであって、死体験ではない。
死の体験はありえない。
ただ特筆すべきは、臨死体験者がほぼ一致して素晴らしい体験をしたと言い、体験後、死を恐れなくなったという事実である。
彼らの多くは死が必ずしも苦痛ではないといい、死後の世界を信じているようにみえる。
死後の世界があるにせよ、ないにせよ、ほっとする話しではないか。