信長・秀吉の楽市楽座により流通経済が飛躍的に発展し、人々の生活がおおいに潤い始めたさなか、突如これを止め農業中心の国家にもどそうとしたのが家康でした。
最初彼は秀吉が始めた朱印船貿易を認めていましたが、徳川政権維持のため徐々に鎖国政策に傾いていきます。
つまり、流通ネットワークを海外に広げて商いを発展させようとする動きを抑え、農本主義の社会をめざします。
その背景には、神の前では皆平等であり幕府体制を受け容れられないキリスト教への不信感と、貿易で高利を得ている西国大名が幕府に反旗を翻しかねないという強い不安がありました。
ちょうど、国家の後ろ盾と軍事援助を得て、アジアに勢力を拡大してきたヨーロッパ諸国(スペイン・ポルトガル・オランダ)の行動と対照的です。
時代遅れの政策
この時代遅れの政策のおかげで、日本社会は国際的に未開発国、低文明国と位置づけられていきますが、逆に徳川家にとってみれば、260年間政権を維持できたありがたい政策ともいえましょう。
当時、関が原の合戦がたった一日で決着がつくとは、武将のほとんどが思っていなかったようです。
そのため、関が原合戦に呼応し、毛利の家臣・宍戸や村上元吉(村上水軍)が加藤嘉明の留守をついて松前城を攻め、宇和郡でも有力郷民が蜂起しましたが、ほどなく大洲の藤堂軍に鎮圧されました。
戦後、家康は伊予を二分し、東軍に味方した加藤嘉明と藤堂高虎の二人(犬猿の仲)に20万石ずつ分与し、外様大名の国としました。
しかし家康にはこの体制を続ける意志はなかったようです。
その後しばらくして、家康は自身の甥、松平定行・定房の兄弟にそれぞれ松山15万石、今治3万石を与え、西条には紀州徳川家より徳永頼純を入れ親藩の国としました。
さらに、水戸徳川家の松平頼重に高松12万石を、池田光政に岡山31万石を与えて、瀬戸内海沿岸を身内で固めたのでした。
家康の頭のなかには、将来徳川家の脅威は西国大名であるという考えがあったといわれています。
このため特に瀬戸内沿岸に睨みを利かせることに腐心したようです。
加藤嘉明の築城
20万石の大名となった加藤嘉明は、道後平野の中心である勝山に壮大な平山城を築いていきます。
平山城とは山を中心に周辺の平地もろとも城のなかに取り込んだものです。
嘉明の築城構想は、明らかに大軍の攻撃に対する本格的防御体制をとったもので、幕府の命で松山城を検分した福島正則はあまりの大掛かりな築城に“只事ならず”と報告しています。
このため、幕府は彼を警戒し、完成目前になって、突然会津42万石へ転封するよう申し渡しました。
20万石からの倍増にもかかわらず、嘉明は何度か丁重にこれを辞退しようとしています。
65歳という高齢での北国への人事移動はつらいものがあったでしょうし、精力を傾けた築城が完成する段になっての転封に無念の思いがあったことは容易に想像できます。
嘉明の去ったあと、蒲生忠知を経て、家康の異父弟久松定勝の子・定行が松山15万石の藩主となります。
この時、久松家は徳川一門として松平の性を名乗ることを将軍家より許され、同時に中・四国の探題として勤めることを求められました。
1644年、長崎に入港したポルトガル船警護の幕命をうけた定行は、この時長崎でみた洋菓子の製菓技術を藩士に学ばせ、これにより松山で和風味の“タルト”が誕生しました。
城造りの名手、藤堂高虎
また普請奉行足立重信は湯山川の治水工事を行い、灌漑用水河川(石手川)として生き返らせました。
また藤堂高虎は城造りの名手といわれていますが、今治を東予20万石の拠点と考え、瀬戸内海に面する今治の自然砂丘に城を築きました。
城は三重の堀で守られ、堀には海水が引かれていました。
しかし、ほどなく伊勢に転封となったため、城下町の経営は中断してしまいました。
さらに今治藩は3万石に減らされたため、跡を継いだ松平定房は経営維持に苦労し、農民を総動員して塩田造成工事をしたり、白木綿の製造販売に尽力しています。
宇和島城も藤堂高虎が築城しましたが、内陸部の盆地を避け、2面が海に面した水城としました。
今治同様、瀬戸内海に直結するという意識が働いているようです。
その後、伊達政宗の嫡男秀宗が10万石で入封して大規模改修し、幕末まで250年間、伊達家が在封しました。
大洲城も藤堂高虎が基礎を築いたようです。
1617年、米子6万石の加藤貞泰が大洲6万石の藩主となり幕末まで統治しますが、藩主が学問好きであったため藩士に学問を奨励し、陽明学派の祖、中江藤樹を輩出します。
結局伊予の国は8藩となり、幕末までつづくことになります。
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