哀惜の念とは去りゆくものへの深い愛情から、別れを惜しみ、悲しみにくれるというものである。
「杓子定規」より義理人情の「浪花節」を好む我が国では、死にゆく者に対しても独特の対応を示すようにみえる。
例えば災害で、目の前に死にかかったひとがいる。自分が動けるなら全力で助けようとするのは人情である。
では大災害で多くの人が瀕死の危機にさらされた場合はどうだろう。
みんなで手分けして助けようというのは平静時の頭が考えることで、混乱する現場では、目の前に手を差し出す人がいれば、まずその人をなんとか助けようとするだろう。
周りの苦しむひとを後まわしにするのは、致し方ないではないか。
ひとりよがり?日本人ボランティア
日本人ボランティアのなかには、かくの如き発想をもつ人が多く、国際ボランティア仲間のなかでは、奇異な目でみられがちである。ひとりよがりといった評価である。
キリスト教徒の多い欧米ボランティアは、手を指し出されてもすぐには行動しない。まず、援助すれば助かる人はどの人かを選別する。
援助なしでも自力でなんとかなりそうだと思えば、助けに応じない。
援助しても助かりそうにないと判断すれば、やはり助けには応じない。
非情な話しだが、救援物資に限りある状況では、援助すれば助かる人達にまず手を差し伸べるべきだという。
助からないひとに貴重な医薬品、食料をつぎ込んだおかげで、助かるはずのひとを死なせてしまうとしたら、ボランティアにはならない。
正論といえる。
死の床
話し変わって、愛する家族が死の床にあるときにも、対応に大きな差がみられる。
日本では患者が死の苦しみにある場合、家族はできる限りの手当てをしてあげようとする。
一方欧米人は死に臨んで苦しむ姿をみれば、安楽死させてでも早く楽にしてあげようとする傾向がある。
どちらが正しいかという問題ではない。家族に対する愛情にも差があるとは言えない。
ただ、浪花節には戦略がない。「できる限りの手当て」とは、じつは極めて曖昧で、どのようにでもなりうる。死に行く者にとって、ありがたくない場合もあるということだ。
それにしても、ひとの気持は移ろいやすい。苦痛に耐えかね、死にたいといっても、翌日小康を得れば、安楽死などとんでもないという。
尊厳死を宣言したからといって、一丁上がりというわけにはいかないのだ。
安楽死問題がなかなか進まないのは、人間の「さが」というべきだろう。