nihonsi

日本史ひとこま

藤原泰衡の苦悩

日本史ひとこま

平安時代

藤原泰衡の苦悩

100年続いた奥州藤原氏最後の当主・泰衡を評価したい。1189年、頼朝の攻撃を受けた彼は、平泉に陣をしかず、北へ逃走した。通常、強大な相手に攻められた場合は、堀や土塁を築き、館にこもって、焦土作戦をとるのが普通だが、彼はそれをしなかった。彼...
戦国時代

近江守護・京極氏のことなど

室町幕府は守護大名の連合政権といえる。幕府本体が頼りないため、有力守護は政権維持のために、やむなく郷里を離れ京に住まなければならなかった。このため守護は、自分の領地の経営を他人に任さなければならなくなり、ついには領主の地位を乗っ取られてしま...
幕末

切腹の美学

土佐勤王党の領袖・武市半平太が壮烈な三文字腹で切腹したのは、慶応元年5月、陽が落ちて篝火の焚かれる時刻であった。土佐勤王党は武市が”一藩勤皇”を唱え、下級藩士・郷士200名を擁して成立した。これに対し土佐藩参政・吉田東洋は、安政の大獄の後で...
戦国時代

千代の深謀遠慮と家康

秀吉が逝去したあと、家康は頭が痛かった。自分の齢を考えると、天下を窺うに時間はさほど残されていない。このまま争乱もなく、平和が続くようなことになると大変である。覇権を握るためには、秀頼を支持する勢力を、なんとしても短期間に抹殺しなければなら...
明治

木戸と大久保の手法

木戸孝允と大久保利通は維新政府の二大巨頭である。比較的リベラルな木戸に対し、大久保は中央集権への志向が強い保守派である。政策上は相容れない部分が多かったが、互いに敬意を払い、相手をたてることにやぶさかでなかった。下からの意見の具申に対し、大...
幕末

村田蔵六(大村益次郎)の武士道

適塾は医学塾というより蘭学塾である。医師緒方洪庵が診療と平行して開設したものである。その人情味溢れる教育指導は全国に鳴り響き、門弟は延べ3000人を数えたという。幕末、西洋を知るには蘭語だけがその糸口であり、ペリーの恫喝に驚いた若者の多くは...
明治

廃刀令の皮肉

剣術は戦国期以来、沈下していたが、幕末にいたり一気に興隆し、江戸市中には500の剣術道場ができたという。ところが明治維新とともに再び剣術は廃れた。なにより廃刀令である。ちょん髷を切り着物も草履も脱ぎ捨てれば、洋服に革靴を履いて刀をさすわけに...
幕末

桂小五郎(木戸孝允)の英知

先般、料理名人のS氏から出石そばをいただいた。彼自身蕎麦打ち名人であるから、不審な顔をすると、その昔彼が修行に行った先だというから相当なものと判断した。出石そばの出処は信州である。徳川中期、松平氏に代わり国替えとなった信州上田の千石氏が持ち...
明治

増田宋太郎の涙

明治10年、西南戦争が勃発し、中津藩(大分県)からは増田以下同志64名が薩軍に参加していた。半年後戦局は決し、薩軍が可愛嶽から鹿児島に落ち延びようとしたときである。隊長の増田が同志に向かって言った。「薩人は故郷鹿児島で死のうとしている。われ...
明治

臥薪嘗胆

臥薪嘗胆は日清戦争後のわが国にとって、国民の合言葉となった。日清戦争を制して遼東半島を領有した日本に対し、南下政策をとるロシアが、有無を言わせず遼東半島を強奪したのである。日本の面目は丸つぶれである。しかし、たかだか20万の兵力しかもたぬ我...
幕末

龍馬無念

龍馬を殺害したのは京都見廻組の今井信郎(のぶお)といわれる。彼は20歳で免許皆伝をうけた直心影流の達人で、幕府の剣術教授を勤めていた。5尺8寸(175cm)の頭上から振り下ろす片手打ちは向かうところ敵がなく、師匠より禁じ手とされたという。慶...
平安時代

お大師さん

四国八十八ヶ所には、一年を通しお遍路さんの絶えることがない。その白装束の背には、遍照金剛と墨書されている。遍照はあまねく照らす、金剛とは永遠に不滅の意である。若き日の空海が留学先の中国で、密教の第1人者恵果から与えられた称号である。かつてお...
title
sub-title
title
sub-title
title
sub-title
title
sub-title