四季雑感/SIKI

祖父の髭

祖父の髭

祖父の髭


高校時代に髭を剃った記憶はない。大学に行くため郷里を離れて下宿をし、銭湯に通うようになってから、髭を剃り始めた。

しばらくは数日に1回、ディスポの廉価な髭剃りで事足りていたのだが、学年が上がり臨床実習で患者さんに接するようになると、そうはいかない。臨床教授から、無精ひげのまま患者さんの前には出ることは固く禁じられていた。

毎日髭を剃るとそれが刺激になるのか、髭のほうも以前より早く伸びてくるのに気づいた。髭剃りも毎日となるとなかなか手間である。やむなく、電気屋に行って、電動のシェーバーなるものを買い求めた。

当時、懐は常に金欠状態で、やむなく最も廉価なものを求めたため、電動といいながら、髭に刃が食い込んだまま、止まってしまうことがしばしばであった。これを外すのがとても痛い。引っ剥がすようにしないと外れないので、そのたび涙が出た。

この苦痛をから解放されたのは、卒業して2年、やっとまともに給料をとるようになってからである。 1973年当時、大学の医局から頂く給与は月5万円ほどであったと思う。無論、日祭日に当直アルバイトに出かけなければ、生活はできない。したがってしばらくの間は、不良のシェーバーを我慢して使わざるを得なかった。

1年の研修の後、医局より高知の安芸にある県病院に赴任命令をうけ、意気揚々と出かけた。   着任早々、院長室へ挨拶に出向くと、定年間近い老院長がニヤニヤしながら近寄ってきて、いきなり「素人女には手を出すなよ」と勧告された。それにしても単刀直入、無神経。これが「いごっそう」といわれる土佐人気質なのかと、憮然たる面持ちになった。

内科の医師は院長を含め4名、皆同じ大学から派遣されている数年先輩の医師ばかりである。あるとき、先輩のひとりに、髭剃りに悩んでいると相談したところ、意外な顔で「髭剃りなら一も二もなくブラウンだよ。君はブラウンも知らないのか。」と一蹴された。

早速、もらった給料袋を手に電気店に赴き、お勧めのブラウンを購入した。           世界で最初に電動シェーバーを開発したというだけあって、滑るように顎髭が削られていく。日本とドイツの技術力の差をしみじみ感じた。以来50年間ブラウンのお世話になっているが、まったく故障知らずで、なかなか買い替えることにならない。

祖父の顎

じつは顎髭というと、どうしても忘れられない思い出がある。

母方の祖父は、終戦後ほどなくして生まれた孫(私)が男だと聞いて、小躍りして喜んだという。じつは自分には、戦争中生まれた姉がいて、これが初孫なのだが、女というだけで無反応だったらしい。

祖父は松山市の郊外で菓子店をやっていたのだが、客商売に似合わず不愛想で、家族には暴君であったらしい。祖母も3人の娘たちも、言い返すようなことをするとすぐ鉄拳が飛ぶものだから、こぞって従順なしもべに徹していたという。

そんなこととはつゆ知らず、幼い私が店頭に現れて、片っ端から目につくお菓子をかじっては捨て、かじっては捨てていたらしい。周りははらはらしながら見ていたという。ところが、私の悪行には打って変わって寛容な爺さんになるものだから、皆あっけにとられたという話しを、だいぶあとになって聞いた。

自分はこれに味を占め、小学校に上がってもなお悪行をつづけ、最後にはグリコのおまけのオモチャだけを取り外し、キャラメルを片っ端からどぶに捨てていたのだが、結局いちども叱られずに済んだ。 それどころか、小学校が夏冬の休みになると、独りでも汽車に乗って松山へ出かけるものだから、祖父の喜びようはなかった。

なにか欲しいものはないか、行きたいところはないかと尋ねるものだから、ラーメン、かき氷、ソフトクリームと答えると、バスで街中へ繰り出し、ことごとく願いを叶えてくれた。当時の私は小さかったから、ごま塩になった爺さんの顎髭を見上げながら、この世の春を謳歌していた。

小学6年に上がった頃、その祖父が心臓発作で急死した。

急遽、母に連れられ松山へ駆け付けたとき、祖父は1階にある居間の布団に寝かされていた。慌てて駆け付けた大人たちが、悲痛な面持ちで周りを取り囲んでいる。自分も大人たちの肩越しに、恐る恐る祖父の顔を覗き込んだ。

意外だった。たしかに顔色は青白いが、普段の顔と変わりがない。かすかに息をしているようにさえ見える。顎髭は相変わらずごま塩だった。

みんな悲嘆にくれていたが、自分はどうしても悲しいという気持ちにはなれなかった。死んだら突然死人らしく変わるんだと信じていたので、当てが外れたという気持ちもあった。はじめて死人を見た緊張で、からだがこわばり、悲しむ余裕などなかったというところだろう。

母は湯を沸かして、丁寧に爺さんの顎髭をそった。通夜の客に見苦しい顔は見せたくなかったのだろう。よく考えれば、母は3人娘の長女だから、葬儀のすべてを取り仕切っていたのだった。残された婆さんは、口数少なく部屋の隅でひっそりとしていた。

夏休みだったせいか、二日ほどはそこに泊まった記憶がある。例によって、私は好きなお菓子をポケットに入れ、2階の部屋の片隅でひとり漫画本を読みながら1日を過ごした。階下に来客の声が絶えることはなかった。

夜になって階下に降りていくと、弔問客が昔話に花を咲かせている。目の置き場に困った私は、何気なく爺さんの寝姿に目をやった。そしてはっとした。寝かされている爺さんは身動きこそしてないものの、昨夜剃ったはずのごま塩の髭が伸びてきているではないか。

たしかに昨夜はなくなっていた。自分はうす気味悪くなって母親のそばに行き、そっと「まだ生きているかも」と呟いた。するとその場に静かな笑いが生じた。おもむろに母から、死んでも髭や髪はしばらく伸び続けるんだと言われ、頭が混乱したのを覚えている。

今でもブラウンで髭を剃りながら、あの夜の祖父の顎髭を思い出し、懐かしむことがある。

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