日本史ひとこま/nihonsi

細川幽斎・忠興父子の身の処し方

細川幽斎・忠興父子の身の処し方

細川幽斎・忠興父子の身の処し方


細川藤孝(幽斎)のように才気ばしった男は、まわりがよく見えるだけに、人より先に行動してしまうため、かえって墓穴を掘ることが少なくない。

毎日が命がけの激動期には、このような人物が長命を保つことは稀である。

藤孝は足利義昭を皮切りに、信長、秀吉、家康のもとを渡り歩き、次々に潰されていくライバルを尻目に、戦国期の混迷をすり抜け、細川家を江戸末期まで存続させる礎をつくった。

彼のマルチタレントぶりは、まことに華やかである。

剣は塚原卜伝に、弓は吉田雪荷に印可を得、武田流の弓馬故実を相伝された武の人である。

また京の路上で、暴れ牛の角をつかみ投げ飛ばすほど、剛の者でもある。

一方では、歌道の奥義「古今伝授」を受けた唯一の伝承者で、近世歌学を大成した文化功労者である。

また有識故実に精通し、能楽にも堪能で、武野紹鴎に学ぶ茶人でもある。正宗の刀剣鑑定の印加もうけている。

さらに、最上とされる鯉料理の包丁さばきは、当代一との定評があった。

もともと細川氏は足利氏の支流にあたり、室町時代に実力を蓄え、幕府管領家の一つに列した。

細川藤孝は将軍・足利義輝が松永久秀に暗殺されると、いち早く幽閉中の足利義昭を救出し、次期将軍の認定をもとめ、宮廷工作に奔走した。

その後、明智光秀を通じて織田信長によしみを通じ、義昭と信長が対立すると、ただちに信長の傘下に入り、以後武人として畿内各地を転戦し、数々の功績をあげた。嫡男忠興も信長の嫡男・信忠に仕えて、各地を転戦した。

このような戦闘の合間をぬって、藤孝は二条流伝承者・三条西実枝から古今伝授をうけたのであった。

この藤孝の才を愛でた信長が仲介の労を取り、嫡男忠興と、光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)の縁組が成立した。

本能寺の変と隠居

ところが1582年、本能寺の変がおこり、天下の動静は予断を許さない状況となった。光秀と姻戚関係にあった藤孝は、重い決断をする。

49歳の藤孝は意を決して剃髪し、家督を忠興に譲って「幽斎」と名乗り、田辺城に隠居してしまったのである。

幽斎の援助を期待していた光秀は、暗澹たる思いであったろう。さらには筒井順慶からも逃げられ、窮地に立った。これがきっかけとなり、光秀は山崎の合戦で一敗地にまみれるのである。

幽斎が隠居したあと、丹後宮津城主となった忠興は、秀吉の了解を得て丹後一国の平定を成し遂げた。

また山崎の合戦後、幽斎は羽柴秀吉に仕え、隠居の身でありながら、紀州、九州征伐に武将として参戦した。

秀吉はその意気を愛で、さらに彼の学識を高く評価して、手厚く彼をもてなした。

忠興もまた秀吉のもとで、小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐に引き続き、文禄の役にも参戦、活躍した。

しかし1598年、豊臣秀吉が死去すると、幽斎と忠興父子は間髪を入れず、すでに親交のあった徳川家康に接近した。

関ヶ原の戦い

そして関ヶ原の戦いに際し、忠興は大阪に妻子を残したまま、迷わず家康軍に身を投じたのである。このため、大阪にいて石田三成による人質作戦を拒絶した細川ガラシャは、自害して果てた。

一方、幽斎は留守を守るため、わずか500の兵で田辺城を守備していた。

そこへ関ケ原に向かう西軍の大軍の目にとまり、城を包囲されたため絶体絶命とおもわれたが、奇跡的に2か月の籠城戦を乗り切った。

これには、幽斎が死ぬと古今伝授が断絶するという危機感をもった朝廷が精力的に動き、関ケ原戦の2日前、勅命により講和となったという経緯がある。

このため、足止めを食らった西軍15000は、肝心の関ケ原に間に合わず、敗因のひとつとなった。

関ヶ原本戦で忠興は、黒田長政らと共に石田本隊との激闘を制した。この戦功により、忠興は小倉藩34万石と杵築6万石、あわせて40万石の大大名となった。

一方幽斎は京に住み、悠々自適の生活を送り、77で世を去った。

忠興はその後、大坂夏の陣にも参戦したが、5年後、病気のため、三男の忠利に家督を譲って隠居した。父幽斎の影響をうけ、和歌や能楽、絵画に精通し、茶人としても大成(三斎流の開祖)し、「細川三斎茶書」を著した。利休にこよなく愛され、利休七哲の一人といわれた。

寛永9年(1632年)には、肥後の加藤家が取り潰されたあと、三男・忠利が豊前小倉40万石から肥後熊本54万石の領主に格上げされた。それに伴い、忠興は八代城に入って隠居し、余生を送った。享年83の長命であった。

過酷な乱世にあって、幽斎、忠興父子は一度も主君の選択を誤らず、あまたの危機を乗り切った。彼らの教養が功を奏した局面は少なくない。しかしながら、余程の武運がなければ存命はなかったはずである。

信長、秀吉ですら一時は覇を唱えても、生き残るのは容易でなかった。

戦国時代、全国に割拠する武将の多くが相次いで戦死、没落していくなかで、彼らは見事に勝ち残った。

幽斎の多才ぶり

ところで、幽斎、忠興ふたりの行動をみていると、文武への深い造詣を示しているのにとどまらず、職人的な創作活動にも情熱を注いでいるのに気が付く。

とりわけ幽斎の多才ぶりは、戦国武将のなかでも傑出しており、当代並ぶ者なき教養人といわれた。

とくに歌道においては、当時ただ独りの古今伝授の伝承者であり、人間国宝的存在である。

さてこの時期、武士の包丁さばきなど、自慢にもならぬとおもわれるのだが、それが決して軽視できぬ技術として評価されたらしい。ともかく彼の包丁さばきは有名であった。

あるとき毛利輝元と同席した際、輝元が幽斎の技を是非見たいと所望したため、彼はおもむろにハサミ箱から包丁を取り出し、箱の蓋の上に奉書を敷き、その上に鯉をのせてさばいて見せた。

その切り口はじつに見事であったが、調理後、輝元が箱のうえの奉書を取り上げたところ、奉書にも箱にも、かすり傷ひとつ付いてなかったという。

一方、忠興は自ら使用する武具に工夫を凝らした。刀の外装は打刀の拵(うちがたなこしらえ)と呼ばれ、肥後拵といって刀身と柄を短く仕立て、片手で抜き打ちができるよう、工夫を施した。

また実戦の経験を生かし、甲冑は越中具足と呼ばれる機能性に富んだものを考案、制作した。ものづくりに、ひとかたならぬ情熱を注いでいたことが分かる。

このように、我が国ではこの時期、武士が料理や甲冑制作など職人わざに挑むのを、肯定的にとらえる空気があったということに、少しばかり驚きを感じる。

同じ時代、儒教国中国では、身を労することは小人のすることで、幽斎父子の所作は卑しい行為とみなされた。

徳川政権が朱子学を採用したとはいえ、我が国が儒教国家にはなっていなかったことが、よく分かる。

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