洪庵の人柄は温厚でおよそ人を怒ったことが無かったという。
幕末を代表する教育者として、今も吉田松陰と並び証せられる人物である。
彼はベルリン大学フーフェランド教授の内科書扶氏経験遺訓に感激し、30巻に及ぶ翻訳書を書き上げると共に、巻末に記された“医師の義務“を愛弟子に伝えるべくこれを抄訳し、12か条の医戒を著わした。
世に名高い扶氏医戒之略であり、彼の精神的骨格はここに集約されていると言っても過言でない。
その中の代表的な2か条を抜粋する。
安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすて、人を救はんことを希ふべし。
人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解する外他事あるものにあらず。
二.不治の病者も仍其患苦を寛解し、其生命を保全せんことを求むるは医の職務なり。
棄てて省みざるは人道に反す。
たとひ救うこと能はざるも、之を慰するは仁術なり。
片時も其命を延んことをおもうべし。
決して不起を告ぐべからず。
言語容姿みな意を用いて之を悟らしむることなかれ。
この精神はキリスト教的人類愛に基づいており、医師たるものの本質を的確に捉えている。
儒教的素養のあった洪庵には無理なく受け容れられたようであり、現在なお医学倫理教育にも頻用されている。
緒方洪庵は、幕末における日本第一の蘭医学者といわれる。
備中足守藩出身で、16歳で大阪の中天游に、21歳で江戸へ出て坪井信道に、26歳に長崎のオランダ人医師ニーマンのもとで勉学し、2年後の1838年に帰阪後、28歳で医業を開業。
同時に、適々斎塾(適塾)という蘭学塾を開いた。
新進気鋭の若年医師であるが、開業2年で大阪を代表する名医といわれるまでになった。
地域医療にも情熱を注ぎ、コレラの発生に対し治療・予防法を記した「虎狼痢治準」を出版、配布したり、ジェンナーの種痘法を、初めて大阪から西のほう(関西)に広めるのに尽力した。
ただ、彼の人生をみると最も情熱を注いだのは適塾における教育ではなかったかとおもわれる。
誰でも入れる適々斎塾
福翁自伝によれば、塾生50~60人が一人当たり畳一枚をあてがわれ、そのなかに机、寝具、日用品までならべ、ひたすら読書に専念、くたびれ眠くなってくれば机の上につっぷして眠るかそこに寝転ぶが、目覚めればまた机に向かうという生活で、およそ勉強ということではこれ以上やりようがないというほどやったという。
塾の蔵書は、オランダの物理学と医学の原書10部足らずを銘々写して、その写本をもって毎月6斎(回)ぐらい会読(翻訳の試験)をした。
等級は7、8ぐらいに分けてあった。
そうして毎級第一番の上席(トップ)を3ヵ月占めていれば登級(進級)するという規則で、今の受験校のモデルになったかと思わせるシステムである。
適塾に入塾試験はなく、蘭学を学びたいものはだれでも入ることができた。
彼の教育方針は、人に指示されて自分の進路を決めるのではなく、あくまで自主的に進路を決め、努力によってそれを達成することを主眼とした。
洪庵は塾生の特徴を大づかみにしたのちは、あまり塾の細かい規則を作らないで、彼らの資質を伸ばすことに努めた。
翻訳にあたっても字句末節に拘泥せず大意を掴むことに重きを置いた。
そして弟子からの質問に対しては、決して自説を押し付けず、どこに行けば回答が得られるか懇切丁寧に道筋を示し、紹介状を書くのにやぶさかでなかった。
これはすでに塾を去った者にも同様で、まめな文通による交流は終生続いた。
また塾生が退塾して帰郷するさいには、はなむけに「ことに臨んで賤丈夫になるなかれ」と書いて贈ったという。
教育者・洪庵の面目躍如である。
適塾の入門者は日本全国から集り、その数は1000人に達したという。
安政の大獄で刑死した越前の俊英・橋本左内をはじめ、幕府奧医師・高松凌雲、日本近代兵制の父・大村益次郎、日本赤十字社初代総裁・佐野常民、学習院院長・大鳥圭介、内務省初代衛生局長・長与専斎、慶応義塾創始者・福沢諭吉らを始め、故郷に帰って後進を指導しつつ、近代日本の建設に活躍した者が多かった。