パリから北へ60キロ、ひたすら田園の中を進んだのち、川沿いの小さな村で車を降りると、そこがジヴェルニーだという。
生垣で囲まれた家へ足を踏み入れると、モネが後半生を過ごした睡蓮と花の住処が現れた。
といっても、庭造りの好きな老人の個人住居であって、目を見張るような規模の庭園があるわけではない。
しかし、なんといってもあの「睡蓮」の生まれた池であり、紫が印象的なアイリスの描かれた庭である。
モネの作品を反芻しながら庭園を巡ると、100年の昔にタイムスリップした感慨を覚える。
モネは資産家ではなかったから、質素な一軒家の前でこつこつ庭いじりをしながら、薔薇の小径を造った。
その合間に花の庭で絵を描くのを楽しんだ。
そのうち隣接した土地を手に入れ、近くの川の水を引き込んで池を造った。
池に浮世絵から思いついた太鼓橋を造った。
無類の日本びいきであった。
池の周囲は200メートル。
毎日、この橋を渡って散歩するのを楽しみにしていた。
睡蓮は好きで池に浮かべて楽しんだが、当時はこれを描こうとは思っていなかったらしい。
60歳をすぎたある日、突然描きたくなって、それが日課となったという。
「瞬間の光を描きたい」。
モネの終世追い求めたテーマである。
「日傘をさす女」から「積み藁」や「ルーアン大聖堂」に至るまで、しばし対象から目を離さず、刻々と変わる光の表現に精力を傾けた。
それは降り注ぐ光の輝きであったり、木の葉を通す柔らかい光の束、川面に照り返す光のきらめきであった。
「光の画家」とよばれるようになった所以である。
モネの『睡蓮』がフロア全面に広がるパリのオランジュリー美術館。
90メートルに及ぶ壁面のすべてが睡蓮の絵で埋め尽くされている。
実は死の10年前から、モネは2メートルを超える大きなキャンバスに絵を描くようになっていた。
白内障により視力が目立って落ちてきたが、大画面なら少し離れて見ながら、なんとか描けることが分かったためである。
そのうち、池の周りの風景は徐々に取り払われ、画面はすべて池に浮かぶ睡蓮、水草、水面に映る空や樹木で覆われるようになる。
しかも省略が効いて、画面は限りなく抽象的となった。
1914年、第1次世界大戦がおこり、モネは息子たちの出征を見送った。
彼は友人のクレマンソー元首相を通じ、国に自分の絵を寄贈する旨、申し出た。
しかし80歳をすぎると白内障の進行で失明寸前となり、3度の手術をうけながら、キャンバスに向かうという壮絶な日々となった。
それでもモネは、習作をかいてはアトリエで描き足すという作業を繰り返し、86歳の死の直前まで筆を入れ続けた。
モネは『睡蓮』の部屋に他の作品を展示しないこと、作品と観客の間に仕切りやガラスを設置しないように、室内の採光は自然光で、そして作品の展示は自分が死んでからにするようにと念を押した。
死後、その約束が粛々と遂行されたことはいうまでもない。