IYO-PEOPLE

記憶に残る伊予人

比較的地味といわれる伊予人にも、興味深い人たちがいます。その一部をご紹介します。

幕末の四賢侯 伊達宗城(だてむねなり)

郷土案内

記憶に残る伊予人

幕末の四賢侯 伊達宗城(だてむねなり)

たとえばわが国が今から260年間、外国と国交を断ち、あらゆる海外情報をシャットアウトしたとしよう。260年後に会った外国人は異星人のごとく理解の範囲を越え、対応に苦慮するに違いない。伊達宗城たちが置かれた状況はこれに近い。わずかに長崎の出島...
記憶に残る伊予人

最後の伊予大洲藩主・加藤泰秋

東京遷都明治元年9月、若干22歳の伊予大洲藩主・加藤泰秋は明治天皇一行の東京行幸(事実上の遷都)にあたり、その前がけ(行列の先頭)を務めることとなった。長年尊王・勤皇にいそしんできた加藤 泰秋にとって眩しいばかりの栄誉であった。明治政府は、...
伊予の風景スケッチ

湯築城址

もののふの  通いし道や 冬深む
伊予の風景スケッチ

石手川ダム

万緑や  なみなみと夢 湛えたり
伊予の風景スケッチ

炎昼

炎昼の  街中を朱に 染めあげし
記憶に残る伊予人

日本初の女医を育てた二宮敬作

シーボルト二宮敬作は仁義に篤く、礼節をわきまえ信に足る人物であった。幕末、八幡浜市保内町の寒村に住む少年がいかにしてこのような教養を身につけたのであろうか。当時、この村にも儒教の教えは浸透していたようである。しかも16歳の少年が、学問をした...
伊予の風景スケッチ

杖ノ淵公園

池の音の  たおやかにして 春の暮
記憶に残る伊予人

国島六左衛門の悲劇

幕末の伊予大洲藩の藩収入は、たかだか蝋と和紙で、財政はきわめて逼迫していた。さらに外様大名であるため海外情報に疎く、なにかと宇和島藩に接近し情報を得ていた。一方、宇和島藩は安政3年以来、長崎に産物方をおき、交易をしている。その彼らから、蒸気...
伊予物語

1. はじめに

古来われわれ日本人は、中国大陸を通して世界をみてきた。たとえば儒教のおかげで徳を積むということを教えられ、礼節を重んじるようになったし、仏教のおかげで信仰・救済という安寧を得た。唐から律令制を採り入れ、曲がりなりにも国家らしい装いを整えるこ...
伊予物語

2. 律令体制の伊予

今から2,000年前の弥生時代といわれる時期に、中国・朝鮮から数十万から100万人ともいわれる人々(多くは難民)が日本へ渡ってきました。縄文時代50万、奈良時代ですら400万といわれる我が国人口を考えれば、われわれの祖先がこの人たちと無関係...
伊予物語

3. 平安貴族のみた伊予

桓武天皇は不遇の青春時代を経て45歳でやっと権力をつかんだ人物らしく、強いリーダーシップで反対派を粛清し、独裁体制を確立しました。彼は、奈良仏教が国立の大寺の中で仏教論争に明け暮れ、国民のほうへは見向きもせず、しかも宮廷に入り込んだ僧道鏡が...
伊予物語

4. 藤原純友の言い分

平安時代にはいって律令制はうまく作動しなくなり、あちこちに不備がめだつようになりました。朝廷にあつまる租税の不足や品質の低下が政治問題となり、国司と在地側の対立がしばしば社会問題となっていきました。伊予では荘園を逃げ出したひとびとが、海賊と...
伊予物語

5. 頼朝の伊予戦略

源頼朝は恐らく伊予の国を快く思っていなかっただろうとおもわれます。彼の好敵手は言わずと知れた平清盛ですが、瀬戸内海沿岸はもともと平氏が勢力の基盤としたところで、伊予の国も平重盛が伊予の守となって以来、平氏の知行国のひとつでした。ですから頼朝...
伊予物語

6. 一遍上人の世界

踊念仏を始める信仰はその世界にいる人が夢中になればなるほど、外側にいる人には近づき難い違和感を持たれがちです。念仏や題目を唱えるのは、精神を一点に集中するための所作にも見えますが、踊りながら念仏を唱えるとなると、鎌倉時代でも違和感を感じる人...
伊予物語

7. 義満の伊予戦略

室町幕府は実に貧乏な政府でした。幕府の存在を歯牙にもかけない守護大名が国内に何人もいて、それぞれ勝手に自分の独立国を治めていました。将軍が自由にできる土地は10分の1程度でした。当然収入は少なく、関所や港で税金をとったり、徳政令を悪用したり...
伊予物語

8. 室町の覇者 河野一族

鎌倉幕府が開かれると、河野水軍の将、河野通信(みちのぶ)は源平合戦の最終戦、壇ノ浦での活躍を評価され、頼朝より伊予の国最大の武家にとりたてられました。しかし、その後承久の変で後鳥羽上皇を支持したため、河野家は没落、衰退の一途をたどります。そ...
伊予物語

9. 伊予の水軍

律令体制のほころびは瀬戸内海にも影響をおよぼすようになりました。過酷な律令制に耐え切れなくなったひとたちは、土地を放り出し逃げ出したものの、行く先がありません。一部は海に出て、往来する船を脅して物品を略奪するようになりました。伊予水軍で名高...
伊予物語

10. 信長の伊予戦略

信長は自分の眼力に絶対の自信を持ち、当時流行していた呪いやまじないに強い嫌悪感をもち、仏教もキリスト教に対しても、利用はしても信用はしなかった人のようです。この国の身動きを悪くしているしがらみを、ことごとく破壊して風通しを良くし、自分を頂点...
伊予物語

11. 長曽我部元親の憂鬱

元親は伊予の侵略者として、伊予人には決して良い印象はもたれていません。しかし、戦国時代という混沌のなかで、四国をひとつに纏め挙げようと志し、史上はじめてその目的をほぼ達したのですから、敬意を表してとりあげることにしました。四国統一を目論む彼...
伊予物語

12. 秀吉の伊予戦略

秀吉という人はつくづく商才に恵まれた人であったと思います。貧農の子に生まれ、戦乱の世の底辺で様々な小商いをしながら、商売の勘を養い、武士階級との接点を探っていきます。そして偶然、織田武士団の片隅につてを得、下級武士グループの中に身をおいて、...
伊予物語

13. 家康の伊予戦略

信長・秀吉の楽市楽座により流通経済が飛躍的に発展し、人々の生活がおおいに潤い始めたさなか、突如これを止め農業中心の国家にもどそうとしたのが家康でした。最初彼は秀吉が始めた朱印船貿易を認めていましたが、徳川政権維持のため徐々に鎖国政策に傾いて...
伊予物語

14. 江戸時代の武士道

鎌倉以来400年間、武士という名の武闘集団は他人の領地をめぐる略奪戦を繰り返してきた感がありますが、明日をも知れぬ戦場の緊迫のなかに武人の道ともいうべきものが生まれました。兵(つわもの)の道とか弓矢とるものの習いといわれるもので、敵にたいし...
伊予物語

15. 陽明学の祖 中江藤樹

中江藤樹は伊予が生んだ江戸時代を代表する大学者のひとりです。彼はもともと近江の出身ですが10歳のとき、祖父の主君加藤貞泰の転封に伴い米子から大洲へやってきました。大洲藩士となった中江藤樹は、独学で四書十三経、哲学、宗教、医学、文学に精通する...
伊予物語

16. 江戸時代 伊予の生活

江戸時代以前、庶民の住居は土を掘って柱を立てる簡素な掘立小屋が大半でしたが、江戸時代に入って伊予でも礎石の上に柱をたてる耐久性の強い住居がつくられるようになりました。武士の住む武家屋敷の多くは床の間・座敷・茶室・庭をもつ書院造りで、これは一...
伊予物語

17. 江戸時代 伊予の産業

江戸時代には北前船といって大阪から下関を通り日本海を北上し蝦夷にいたる裏日本ルートが主要航路でした。まず大阪で木綿と砂糖を積み込み、灘で酒、赤穂で塩を買いつけ、伊予で蝋や鬢付け、長州中の関(現在の防府)で米・紙・蝋、下関で繰綿を買って北上し...
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