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日本史ひとこま

柳生宗矩の見据えた先

日本人について

江戸時代

柳生宗矩の見据えた先

その日の生活にも難渋する少年期を送った宗矩は、幸運にも父、石舟斎の武芸(無刀取り)が家康の目に留まり、その縁で徳川家に奉公する身となる。 その後、関が原や大阪夏の陣に活躍した後、将軍家剣術師範という武人としてこの上なき地位についた。 身の保...
幕末

鯨海酔侯(げいかいすいこう)

文久2年、江戸に幽居する山内容堂は片腕と頼む吉田東洋が暗殺され、土佐勤王党のへの憎悪を募らせていた。 もともと彼は、幕府のおかげで奇跡的な幸運を得て藩主となった経緯がある。 幕府には人一倍恩義を感じていた。 したがって時流が倒幕に向かってい...
江戸時代

甲子夜話(かっしやわ)

文政4年(1821年)11月17日、甲子(きのえね)の夜、平戸藩の元藩主、松浦(まつら)静山は親友、林大学頭(だいがくのかみ)の勧めにより、心にとどめた日常の出来事を日々書き留めることとした。 62歳のことである。 以後20年間毎日欠かさず...
日本人風雅考

技術について その3

学生時代、試験の前日になって膨大な資料を前にとても覚えきれぬと嘆いた思い出は誰にもあるだろう。 ところが、知的障害をもつ自閉症のひとのなかに、膨大な量の書物を一読しただけですべて暗記してしまい、楽譜は読めないがピアノ曲を一度聴いただけで、た...
平安時代

藤原泰衡の苦悩

100年続いた奥州藤原氏最後の当主・泰衡を評価したい。 1189年、頼朝の攻撃を受けた彼は、平泉に陣をしかず、北へ逃走した。 通常、強大な相手に攻められた場合は、堀や土塁を築き、館にこもって、焦土作戦をとるのが普通だが、彼はそれをしなかった...
戦国時代

近江守護・京極氏のことなど

室町幕府は守護大名の連合政権といえる。 幕府本体が頼りないため、有力守護は政権維持のために、やむなく郷里を離れ京に住まなければならなかった。 このため守護は、自分の領地の経営を他人に任さなければならなくなり、ついには領主の地位を乗っ取られて...
幕末

切腹の美学

土佐勤王党の領袖・武市半平太が壮烈な三文字腹で切腹したのは、慶応元年5月、陽が落ちて篝火の焚かれる時刻であった。 土佐勤王党は武市が”一藩勤皇”を唱え、下級藩士・郷士200名を擁して成立した。 これに対し土佐藩参政・吉田東洋は、安政の大獄の...
興味深い日本人

山内一豊の妻

家康、上杉討伐を目論む 秀吉が逝去したあと、家康は頭が痛かった。 自分の齢を考えると、天下を窺うに時間はさほど残されていない。 このまま争乱もなく、平和が続くようなことになると大変である。 覇権を握るためには、秀頼を支持する勢力を、なんとし...
戦国時代

千代の深謀遠慮と家康

秀吉が逝去したあと、家康は頭が痛かった。 自分の齢を考えると、天下を窺うに時間はさほど残されていない。 このまま争乱もなく、平和が続くようなことになると大変である。 覇権を握るためには、秀頼を支持する勢力を、なんとしても短期間に抹殺しなけれ...
明治

木戸と大久保の手法

木戸孝允と大久保利通は維新政府の二大巨頭である。 比較的リベラルな木戸に対し、大久保は中央集権への志向が強い保守派である。 政策上は相容れない部分が多かったが、互いに敬意を払い、相手をたてることにやぶさかでなかった。 下からの意見の具申に対...
幕末

村田蔵六(大村益次郎)の武士道

適塾は医学塾というより蘭学塾である。 医師緒方洪庵が診療と平行して開設したものである。 その人情味溢れる教育指導は全国に鳴り響き、門弟は延べ3000人を数えたという。 幕末、西洋を知るには蘭語だけがその糸口であり、ペリーの恫喝に驚いた若者の...
明治

廃刀令の皮肉

剣術は戦国期以来、沈下していたが、幕末にいたり一気に興隆し、江戸市中には500の剣術道場ができたという。 ところが明治維新とともに再び剣術は廃れた。なにより廃刀令である。 ちょん髷を切り着物も草履も脱ぎ捨てれば、洋服に革靴を履いて刀をさすわ...
幕末

桂小五郎(木戸孝允)の英知

先般、料理名人のS氏から出石そばをいただいた。 彼自身蕎麦打ち名人であるから、不審な顔をすると、その昔彼が修行に行った先だというから相当なものと判断した。 出石そばの出処は信州である。 徳川中期、松平氏に代わり国替えとなった信州上田の千石氏...
明治

増田宋太郎の涙

明治10年、西南戦争が勃発し、中津藩(大分県)からは増田以下同志64名が薩軍に参加していた。 半年後戦局は決し、薩軍が可愛嶽から鹿児島に落ち延びようとしたときである。 隊長の増田が同志に向かって言った。 「薩人は故郷鹿児島で死のうとしている...
明治

臥薪嘗胆

臥薪嘗胆は日清戦争後のわが国にとって、国民の合言葉となった。 日清戦争を制して遼東半島を領有した日本に対し、南下政策をとるロシアが、有無を言わせず遼東半島を強奪したのである。 日本の面目は丸つぶれである。 しかし、たかだか20万の兵力しかも...
医学史ひとこま

町医者から医師へ

いまも開業医のなかには、「ほんの町医者です」などと、自らを卑下していう習慣がある。 町医者は江戸時代の町や村で、細々生計を立てていた百姓および町人身分の医者の総称である。 強いて言えば士農工商の工にあたり、身分は決して高くない。 だれでも希...
医学史ひとこま

華岡青洲の奇跡

自家製麻酔薬 今から200年ほどさかのぼる1804年のことである。 紀州の田舎の一開業医が自家製麻酔薬を使って、世界で始めて乳がんの手術を成功させた。 失敗すれば殺人罪に問われかねない瀬戸際でメスをもち、果敢に手術に挑んだのである。 この金...
幕末

龍馬無念

龍馬を殺害したのは京都見廻組の今井信郎(のぶお)といわれる。 彼は20歳で免許皆伝をうけた直心影流の達人で、幕府の剣術教授を勤めていた。 5尺8寸(175cm)の頭上から振り下ろす片手打ちは向かうところ敵がなく、師匠より禁じ手とされたという...
平安時代

お大師さん

四国八十八ヶ所には、一年を通しお遍路さんの絶えることがない。 その白装束の背には、遍照金剛と墨書されている。 遍照はあまねく照らす、金剛とは永遠に不滅の意である。 若き日の空海が留学先の中国で、密教の第1人者恵果から与えられた称号である。 ...
日本人について

伊予の昔ばなし

日本列島が外敵から身を守るように、覆い囲むようにしてできたのが瀬戸内海であり、その中央に位置する伊予の国は大陸からの触手が伸びることもなく、過保護なまでに手厚く守られてきた。 台風など自然の脅威も四国山脈でさえぎられ、風雪におかされることな...
日本人気質

ガンと闘うひとびと

医師になってはじめて受け持った患者さんは、大学教授であった。 つい1ヶ月前までは学生身分で、教授と名のつく先生方にひたすら恭順の意を唱えていたわけだから、突然そういう立場の方に“先生”などと言われると、面食らってしまったのは言うまでもない。...
日本人風雅考

技術について その2

世間に言われるごとく、40を過ぎるとノンフィクションにしか目が向かなくなっていたが、昨今、”美しい日本語”という企画で川端康成が取上げられたのを機に作品を読み返してみた。 ”雪国”と”山の音”の2作品である。 その昔「国境の長いトンネルを抜...
日本人風雅考

技術について その1

近年、若き臨床医の目線は、間接的手法を飛び越え、直接、病変に迫る診断・治療へ一目散に向かっている感がある。 現実的とも短絡的とも揶揄される。 内視鏡の世界も目まぐるしい。 胃腸はいうに及ばず、肝臓・胆管・すい臓・膀胱・尿管・子宮へと次々にカ...
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