O先生に初めて会ったのは、医師になって1年目、文献を探すため医学部図書館へ行ったときだった。
当時40すぎの先生は筆頭講師の地位におられたが、新進気鋭の肝臓病学者としてすでに全国に名の知られた存在であった。図書室の机上に分厚い洋書を開き、熱心に読みふけっておられた。その端然とした姿に近寄りがたい空気があり、そばにいるだけで、ひどく緊張したのを覚えている。
2年ほど経ったころ、父親が肺癌で急逝したため、郷里へ戻り、内科医院の後始末をせざるを得なくなった。その残務整理の最中、愛媛大学に医学部が創設され、O先生が初代内科教授になられたというニュースを聞き、家業を閉じて先生の下で研究生活に入った。
研究が始まると、定期的に教授のもとで、その成果を報告せねばならない。先生は結果を出せない研究員には厳しい評価を下し、さらなる研究を求めた。
自分も胆嚢の病態生理をテーマに模索を繰り返していたが、時間ばかり虚しく過ぎるだけで思った結果が出ず、悶々とした日々を過ごしていた。
このころ、先生から指摘されたことがある。
「どんな優れた論文でもただ読んでいたのでは、いつまでも頭の中は整理出来ない。納得のいく論文をいくつか読み込んで、どこか盲点はないか、異なる視点から検討ができないか、あらたな展開ができないか、自分の頭で考え抜くように」と教示された。
そんな頭はないのに、到底無理だとぼやきながら研究をつづけるうちに、ふと新しいテーマが浮かんできて、一挙に研究が進むということがあった。こんな頭でも使っておればなにかは出てくるものだと、納得したものだった。
さらに年間を通し、すべての研究生に研究会や学会での発表を強要された。そしてほとんど成果の上がっていない臨床成績でも、先生はこれだけは言えるのではないかというものを見つけ、弟子たちに発表のチャンスを与えておられた。
つまり、カオスのなかから何物かを生み出すという魔術を、我々研究生はしばしば経験させてもらった。
学会発表の前には発表者全員の前で予備審査がある。研究成果を針小棒大に言いたがるのを、先生は常にいさめられた。
「学問ははったりではない。多くを語ろうとするな。明らかになった事実を、ひとつに絞って発表すればよい。それが聞く人に最も良く受け容れられるのだ」。多くを語れば語るほど焦点がぼやけて、言いたいことが伝わらないという指摘であった。
先生はすでに功成り名を遂げたひとであったが、自からそれを誇ることは一切されなかった。
「自分のすべき仕事を愚直にコツコツやること。実績を積めば、向こうから教えを請いに来る。学問を志す者は自らを売り出すようなことをしてはならない」。折に触れ、先生は我々研究生に向かって訓戒を垂れたことであった。
一方で、専門外では部下であっても相手を立て、対等の立場で話された。たとえば専門外の講義の直前に、部下に短時間でポイントだけを質問し、「ありがとう」と言ってそのまま学生講義に出かけておられた。
ときには講義中、突然講義係(教授の講義内容を記録する係)だった自分に向かって、「この分野は彼のほうが詳しいから交代する」といって教壇から降り、慌てさせられたこともある。聞けば、そういうことは決して稀でなかったそうだ。
専門外は堂々と知らないと言い、それを隠そうとされなかった。学問を究めた人はこういう態度をとるのだと、一段と尊敬の念を深くしたものだった。
初めてストックホルムでの世界消化器病学会に出席した帰り、教授のかばん持ちをしたことがある。先生の懇意にしておられるスイスの友人ふたり(ひとりはスペイン系フランス人)に案内され、ジュネーブからレマン湖に沿って北上、インターラーケンからアイガー北壁を望み、チューリッヒまでベンツに乗って2泊3日の旅のお供である。
自分は学会出席前に3か月英会話教室に通っただけで、学会では外国人の質問にほとんど答えられず、大恥をかいてしまったのだが、ベンツのなかでも英語、フランス語、スペイン語が飛び交うなか、沈黙を続けるしかなかった。無論先生は英語、時にフランス語を自由に操っておられた。
先生はバイオリニストでもあったから、どうもその方面の話し相手を探しておられたようだ。自分は学生時代、ピアノとフルートを少しばかりやっていたので、バイオリンにも興味を持ち、ハイフェッツやオイストラフについて語り合うのはいやでなかった。
オーケストラの話しになると、トスカニーニとフルトベングラーを絶賛され、カラヤンのパフォーマンスに不快感を示された。自分はフルトベングラーの重厚さは好きだが、トスカニーニのイタリヤ的明るさとテンポには抵抗があるというと、大いに頷いておられた。どうも、先生はご自分とは異なる意見を聞いて、いろいろ話し合いたいのだということが分かった。それで、自分もだんだんいい気になって、喋りすぎたような気がする。
かばん持ちという任務をついつい忘れ、遊覧の旅の気分になりきって、先生と対等によもやま話が出来るのがうれしかった。尊敬する先生と一緒に過ごした3日間を振り返ると、今も熱いものがこみあげてくる。
帰国し仕事に戻ったとたん、先生は元のように厳しくなった。ふたたび先生を仰ぎ見る日々がつづいた。学位論文が書きあがり、市中病院へ赴任してからも、長年講義係をしていたため、先生の講義に足りない資料がほぼ分かっていた。
そこで、貴重な症例があるとスライドを作成して、ある程度溜まると先生のところにお持ちした。先生は素直に喜ばれ、講義にも利用していただいた。先生の学究生活からみると、僅かな部分なのだが、そのわずかでも役に立っているというのがうれしかった。
先生の門下生となって12年の後、許可を得て自分は胃腸の専門クリニックを開設した。
先生からハガキが届いたのは、さらに10年近く経った夏の盛りだった。暑中見舞いの返事として、弱々しい字体で「もう少し生きます」とだけ書かれてあった。
その日は友人たちと街で会食する予定だったから、食事の間中それが気になって、いつものようにくつろげなかったのを覚えている。
先生に付き添っていた医師の友達に聞くと、先生は数年前から前立腺癌を患っておられたという。腰の痛みでレントゲン写真をとり、精査の結果、前立腺癌の骨転移と判明したそうだ。以後、抗癌剤治療をつづけておられたと聞いた。苦痛を全く顔に出されないので、自分は何も知らず、ときどき研究会でご挨拶する程度の関係がつづいていたのだった。
「もう少し生きます」というハガキを見るたび、先生の無念を感じていたたまれない思いがした。先生が亡くなられたのはその後、間もなくであった。
それから20年がたって、自分は先生の享年と同じ歳になった。同期の友人と共に当時を振り返り、あらためて先生の偉大さに畏敬の念を抱いたことであった。