幕末 村田蔵六(大村益次郎)の武士道 適塾は医学塾というより蘭学塾である。医師緒方洪庵が診療と平行して開設したものである。その人情味溢れる教育指導は全国に鳴り響き、門弟は延べ3000人を数えたという。幕末、西洋を知るには蘭語だけがその糸口であり、ペリーの恫喝に驚いた若者の多くは... 2006.02.12 幕末
四季雑感 死後の世界をみたか インターネットで誘われ見知らぬひとと集団自殺を図るという。いかなる情報も安易に入手できる社会の生んだ悲劇といえるが、“死にたい”と“死ぬ”には大きな隔たりがあって、“死にたい”ひとが集まってはじめて、思い切って“死ぬ”へ近づくようにおもわれ... 2006.02.05 四季雑感
明治 廃刀令の皮肉 剣術は戦国期以来、沈下していたが、幕末にいたり一気に興隆し、江戸市中には500の剣術道場ができたという。ところが明治維新とともに再び剣術は廃れた。なにより廃刀令である。ちょん髷を切り着物も草履も脱ぎ捨てれば、洋服に革靴を履いて刀をさすわけに... 2006.02.02 明治
幕末 桂小五郎(木戸孝允)の英知 先般、料理名人のS氏から出石そばをいただいた。彼自身蕎麦打ち名人であるから、不審な顔をすると、その昔彼が修行に行った先だというから相当なものと判断した。出石そばの出処は信州である。徳川中期、松平氏に代わり国替えとなった信州上田の千石氏が持ち... 2006.01.29 幕末
明治 増田宋太郎の涙 明治10年、西南戦争が勃発し、中津藩(大分県)からは増田以下同志64名が薩軍に参加していた。半年後戦局は決し、薩軍が可愛嶽から鹿児島に落ち延びようとしたときである。隊長の増田が同志に向かって言った。「薩人は故郷鹿児島で死のうとしている。われ... 2006.01.24 明治
明治 臥薪嘗胆 臥薪嘗胆は日清戦争後のわが国にとって、国民の合言葉となった。日清戦争を制して遼東半島を領有した日本に対し、南下政策をとるロシアが、有無を言わせず遼東半島を強奪したのである。日本の面目は丸つぶれである。しかし、たかだか20万の兵力しかもたぬ我... 2006.01.23 明治
医学史ひとこま 町医者から医師へ いまも開業医のなかには、「ほんの町医者です」などと、自らを卑下していう習慣がある。町医者は江戸時代の町や村で、細々生計を立てていた百姓および町人身分の医者の総称である。強いて言えば士農工商の工にあたり、身分は決して高くない。だれでも希望すれ... 2006.01.22 医学史ひとこま
医学史ひとこま 華岡青洲の奇跡 自家製麻酔薬今から200年ほどさかのぼる1804年のことである。紀州の田舎の一開業医が自家製麻酔薬を使って、世界で始めて乳がんの手術を成功させた。失敗すれば殺人罪に問われかねない瀬戸際でメスをもち、果敢に手術に挑んだのである。この金字塔が独... 2006.01.22 医学史ひとこま
記憶に残る伊予人 国島六左衛門の悲劇 幕末の伊予大洲藩の藩収入は、たかだか蝋と和紙で、財政はきわめて逼迫していた。さらに外様大名であるため海外情報に疎く、なにかと宇和島藩に接近し情報を得ていた。一方、宇和島藩は安政3年以来、長崎に産物方をおき、交易をしている。その彼らから、蒸気... 2006.01.22 記憶に残る伊予人
平安時代 お大師さん 四国八十八ヶ所には、一年を通しお遍路さんの絶えることがない。その白装束の背には、遍照金剛と墨書されている。遍照はあまねく照らす、金剛とは永遠に不滅の意である。若き日の空海が留学先の中国で、密教の第1人者恵果から与えられた称号である。かつてお... 2006.01.22 平安時代
幕末 龍馬無念 龍馬を殺害したのは京都見廻組の今井信郎(のぶお)といわれる。彼は20歳で免許皆伝をうけた直心影流の達人で、幕府の剣術教授を勤めていた。5尺8寸(175cm)の頭上から振り下ろす片手打ちは向かうところ敵がなく、師匠より禁じ手とされたという。慶... 2006.01.22 幕末
日本人について 伊予の昔ばなし 日本列島が外敵から身を守るように、覆い囲むようにしてできたのが瀬戸内海であり、その中央に位置する伊予の国は大陸からの触手が伸びることもなく、過保護なまでに手厚く守られてきた。台風など自然の脅威も四国山脈でさえぎられ、風雪におかされることなく... 2006.01.12 日本人について
伊予物語 1. はじめに 古来われわれ日本人は、中国大陸を通して世界をみてきた。たとえば儒教のおかげで徳を積むということを教えられ、礼節を重んじるようになったし、仏教のおかげで信仰・救済という安寧を得た。唐から律令制を採り入れ、曲がりなりにも国家らしい装いを整えるこ... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 2. 律令体制の伊予 今から2,000年前の弥生時代といわれる時期に、中国・朝鮮から数十万から100万人ともいわれる人々(多くは難民)が日本へ渡ってきました。縄文時代50万、奈良時代ですら400万といわれる我が国人口を考えれば、われわれの祖先がこの人たちと無関係... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 3. 平安貴族のみた伊予 桓武天皇は不遇の青春時代を経て45歳でやっと権力をつかんだ人物らしく、強いリーダーシップで反対派を粛清し、独裁体制を確立しました。彼は、奈良仏教が国立の大寺の中で仏教論争に明け暮れ、国民のほうへは見向きもせず、しかも宮廷に入り込んだ僧道鏡が... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 4. 藤原純友の言い分 平安時代にはいって律令制はうまく作動しなくなり、あちこちに不備がめだつようになりました。朝廷にあつまる租税の不足や品質の低下が政治問題となり、国司と在地側の対立がしばしば社会問題となっていきました。伊予では荘園を逃げ出したひとびとが、海賊と... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 5. 頼朝の伊予戦略 源頼朝は恐らく伊予の国を快く思っていなかっただろうとおもわれます。彼の好敵手は言わずと知れた平清盛ですが、瀬戸内海沿岸はもともと平氏が勢力の基盤としたところで、伊予の国も平重盛が伊予の守となって以来、平氏の知行国のひとつでした。ですから頼朝... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 6. 一遍上人の世界 踊念仏を始める信仰はその世界にいる人が夢中になればなるほど、外側にいる人には近づき難い違和感を持たれがちです。念仏や題目を唱えるのは、精神を一点に集中するための所作にも見えますが、踊りながら念仏を唱えるとなると、鎌倉時代でも違和感を感じる人... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 7. 義満の伊予戦略 室町幕府は実に貧乏な政府でした。幕府の存在を歯牙にもかけない守護大名が国内に何人もいて、それぞれ勝手に自分の独立国を治めていました。将軍が自由にできる土地は10分の1程度でした。当然収入は少なく、関所や港で税金をとったり、徳政令を悪用したり... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 8. 室町の覇者 河野一族 鎌倉幕府が開かれると、河野水軍の将、河野通信(みちのぶ)は源平合戦の最終戦、壇ノ浦での活躍を評価され、頼朝より伊予の国最大の武家にとりたてられました。しかし、その後承久の変で後鳥羽上皇を支持したため、河野家は没落、衰退の一途をたどります。そ... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 9. 伊予の水軍 律令体制のほころびは瀬戸内海にも影響をおよぼすようになりました。過酷な律令制に耐え切れなくなったひとたちは、土地を放り出し逃げ出したものの、行く先がありません。一部は海に出て、往来する船を脅して物品を略奪するようになりました。伊予水軍で名高... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 10. 信長の伊予戦略 信長は自分の眼力に絶対の自信を持ち、当時流行していた呪いやまじないに強い嫌悪感をもち、仏教もキリスト教に対しても、利用はしても信用はしなかった人のようです。この国の身動きを悪くしているしがらみを、ことごとく破壊して風通しを良くし、自分を頂点... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 11. 長曽我部元親の憂鬱 元親は伊予の侵略者として、伊予人には決して良い印象はもたれていません。しかし、戦国時代という混沌のなかで、四国をひとつに纏め挙げようと志し、史上はじめてその目的をほぼ達したのですから、敬意を表してとりあげることにしました。四国統一を目論む彼... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 12. 秀吉の伊予戦略 秀吉という人はつくづく商才に恵まれた人であったと思います。貧農の子に生まれ、戦乱の世の底辺で様々な小商いをしながら、商売の勘を養い、武士階級との接点を探っていきます。そして偶然、織田武士団の片隅につてを得、下級武士グループの中に身をおいて、... 2006.01.11 伊予物語
伊予物語 13. 家康の伊予戦略 信長・秀吉の楽市楽座により流通経済が飛躍的に発展し、人々の生活がおおいに潤い始めたさなか、突如これを止め農業中心の国家にもどそうとしたのが家康でした。最初彼は秀吉が始めた朱印船貿易を認めていましたが、徳川政権維持のため徐々に鎖国政策に傾いて... 2006.01.11 伊予物語