浦岡 正義

興味深い日本人

西行の旅

愁眉の急 ”大仏殿復元”69歳の西行に勧進のため奥州へ旅立ってくれと言ったのは、東大寺造営責任者の重源である。時は平安末期の1186年である。そのころ西行は伊勢にいて、地元の神官たちに和歌の指導をしている隠者であり、当時69といえば、ほぼ寿...
興味深い日本人

明恵の夢分析

8歳で孤児となる頼朝が平氏打倒を掲げて伊豆で挙兵した時、8歳の少年・明恵の周りにも激変が起こった。母が病死したのに次いで、平氏の武士であった父・平重国も源氏との戦で戦死し、一朝にして天下の孤児となったのである。鴨長明によれば、この年は大凶作...
興味深い日本人

三島由紀夫の唯識

割腹自殺大学4年(昭和45年)の秋、昼食をとっていると臨時ニュースが流れ、「三島由紀夫の暴挙」が報じられた。彼が楯の会の4名と陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、隙を突いて益田総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊員へクーデターを...
興味深い日本人

細川ガラシャと息子たち

今では細川ガラシャが通り名となっているが、それは明治維新、わが国でキリスト教が公認されて以来である。江戸の終わりまでは細川たま(珠、玉)と呼ばれており、母は明智光秀の後添いであった。父・明智光秀の苦労父光秀は美濃の斎藤道三に仕えていたが、道...
世界史ひとこま

唐の都・長安

占領の危機太平洋戦争のあと我が国が米軍の占領下におかれたことは記憶に新しいが、そのほかに2度、我が国は占領の危機に陥ったことがある。一度目は662年、白村江の戦いにおける敗戦、もう一度は元の大軍に襲われた元寇の役である。白村江の敗戦のあと、...
世界史ひとこま

洛陽のこと

9秒984年前、高校生だった桐生選手が100㍍を10秒19で走ったニュースは、驚きをもって迎えられた。近い将来9秒台で走る最初の日本人になるだろうと、多くのものが予想した。それだけに今回の9秒98は、本人にも我々にも待ちわびた朗報といえるだ...
江戸時代

加藤清正・忠広父子の悲運

加藤清正家康にとってみれば、今後徳川家を脅かすのは、秀吉子飼いの武将たちであろう。自分の存命中に、これらの武将を目立たぬように、ひとつひとつ潰しておかねばならない。加藤清正もそのひとりであった。関ケ原の戦いのあと清正を肥後一国の国主に任じた...
医学史ひとこま

長崎市民の誇り 永井隆

長崎名誉市民第1号となったのが故永井隆博士である。長崎原爆投下の混乱のなかで、白血病の身で自ら頭部に大けがをしながら、被災者の看病にあたった。キリスト者として、身を捨てて隣人愛を実践した稀有の人である。クリスチャンとなる永井隆は島根県松江市...
戦国時代

細川幽斎・忠興父子の身の処し方

細川藤孝(幽斎)のように才気ばしった男は、まわりがよく見えるだけに、人より先に行動してしまうため、かえって墓穴を掘ることが少なくない。毎日が命がけの激動期には、このような人物が長命を保つことは稀である。藤孝は足利義昭を皮切りに、信長、秀吉、...
世界史ひとこま

モンゴル軍のこと

少年のころ、毎日馬に乗って生活している遊牧民の子供を、羨ましく思った記憶がある。学校にも行かなくていいし、宿題もない。毎日馬に乗って草原を走り回り、羊の群れに青々とした草を食べさせながら、その中から夜の食卓にのぼる羊を選ぶというのであるから...
日本人気質

かぶきもの(傾奇者、歌舞伎者)

傾奇者(かぶきもの)の登場傾く(かぶく)とは、正道から外れている状態をいい、傾く(かぶく)者とは、まともな恰好をしていない者、道を外れた者の意で、世間ではかぶきもの(傾奇者、歌舞伎者)と呼んで、胡散臭い連中という目でみている。いつの世も傾く...
日本人気質

自粛の文化

忌中の自粛昨年、身内に不幸があったが、90を過ぎた大往生のため、親戚一同、ひとりとして嘆くものがない。ところが、忌中の間は、家の中にこもって故人のために祈り、死の穢れが他の人に移らないよう、人に会うのを控えよという。さらに宴席はもちろん公の...
戦国時代

太閤はんの大阪城

その昔、大阪の地は海のなかにあった。そのなかで南北に丘陵をなす上町台地だけが、半島のごとく海に突き出ていた。台地が盛り上がったのは、豊中から岸和田に至る断層の動きによる。上町台地の東側にある河内湾と西側の大阪湾には、長い年月を経て、淀川・大...
室町時代

足利義政とその妻

応仁の乱台風のあとに流木が積み重なって川をせき止め、水が溢れ出す光景をみることがある。しかし、死体が積み重なって川をせき止めたとなると、尋常なことではない。かつてわが国最大の内乱が京都であった。20万もの兵が11年にわたって刃を交え、京の街...
古代

渡来人のこと

北朝鮮と日米韓の軋轢が高まる中、ひとたび戦火を交える事態ともなれば、朝鮮半島からの難民が大挙わが国を目指す可能性が現実味を帯びてきた。じつは過去にも似たような事態があって、一度目は紀元前300年ころ、戦国時代の戦火を逃れ、中国東北部にいたイ...
古代

弥勒菩薩半跏思惟像

広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像が国宝第1号に認定されたというだけで、当時からこの像がいかに魅力的な存在であったかが分かる。仏像にしては珍しく、座位で右足先を左大腿に乗せ、右膝頭に右肘をついて物思いにふける半跏思惟像である。どちらかというと、人気...
興味深い日本人

タフネゴシエーター・大隈重信

佐賀藩の徹底教育幕末、幕府の呑気さを後目に、諸藩の勉学熱は尋常でなかった。とくに薩摩、長州、佐賀、越前、宇和島の各藩は熱心であり、なかでも佐賀藩の意気込みは突出していた。藩士の子弟は7歳になれば藩校弘道館に入学する。16になると高等教育課程...
明治

大久保利通の東京遷都

慶応3年、徳川慶喜は大政奉還という奇手をうって、薩長の出鼻をくじいた。倒幕の密勅を得て意気盛んな大久保、西郷は、猫だましを食らったように腰が砕け、武力行使ができなくなった。欧米列強がわが国を虎視眈々と狙っている今、大久保は焦燥の念に駆られな...
記憶に残る伊予人

近江聖人・中江藤樹

9歳で、両親と別れ祖父のもとへ中江藤樹が近江国小川村で両親と一緒に生活できたのは、10年に満たない。9歳のとき、150石取りの武士である祖父から跡継ぎに指名され、両親のもとから、米子の祖父母に引き取られたのである。その原因は父と祖父との確執...
古代

巨大古墳の登場

2世紀後半、40年ほどつづいた倭国大乱のあと、結局誰も権力を掌握しきれず、権威の象徴として卑弥呼が選ばれた。ただし彼女に任せたのは呪術による権威だけで、卑弥呼の邪馬台国が実権を握ったわけではない。象徴天皇のごとき地位にいる。弥生時代と呼ばれ...
興味深い日本人

徳川慶喜の武士道

慶喜、15代将軍に 家茂の死から5ヶ月が経過した慶応2年12月、執拗に将軍職を固辞していた慶喜が第15代将軍職に就任した。「死に体」と揶揄される幕府を立て直し、アメリカなど外国勢力の攻勢をいかに防ぐか、国内では薩長連合とのつばぜり合いをどう...
幕末

徳川慶喜の武士道

家茂の死から5ヶ月が経過した慶応2年12月、執拗に将軍職を固辞していた慶喜が第15代将軍職に就任した。「死に体」と揶揄される幕府を立て直し、アメリカなど外国勢力の攻勢をいかに防ぐか、国内では薩長連合とのつばぜり合いをどう納めるか、難問山積の...
日本人の宗教心

弥勒菩薩半跏思惟像

広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像が国宝第1号に認定されたというだけで、当時からこの像がいかに魅力的な存在であったかが分かる。仏像にしては珍しく、座位で右足先を左大腿に乗せ、右膝頭に右肘をついて物思いにふける半跏思惟像である。どちらかというと、人気...
四季雑感

士農工商の記憶

近年、明治という言葉を聞くことも少なくなったが、亡父はかろうじてその明治末年の生まれである。本人は格別それを誇りにしていた。一方、母親は戦時下、女学校に勤務していたある日、喜々として帰宅した父親から、「結婚が決まったぞ」と告げられた。当時、...
興味深い日本人

世阿弥の求めた“花”の美学

歌舞伎の坂田藤十郎がはまり役とはいえ、「曽根崎心中」のお初を演じて62年、ついに公演1,400回に達した。カーテンコールで「山城屋っ!」の掛け声が飛ぶほどの好演だったという。とはいえ齢83である。どこの世界にこの歳の老人が生娘を演じて当たり...
title
sub-title
title
sub-title
title
sub-title
title
sub-title