浦岡 正義

旅のスケッチ

京の秋 東福寺

帰り道 しきりに誘う 薄黄葉(うすもみじ)
四季雑感

稀有な体験

地震で家が倒壊したのが、出掛けた直後だったとか、墜落した飛行機に乗り遅れたため九死に一生を得たなどというニュースを聞くたび、たまには、そんなことも起こりうるだろうとは考えるのだが、それが何度も繰り返すとなると、偶然だとはいえない何かを感じる...
日本人気質

腹芸(はらげい)

腹とは本心の宿るところもともと腹は張り出したところ、膨らんだところという意があり、そこは胸の内よりさらに深いところで、本人が人に見せない心の内、本心が宿っているところと考えられた。そこから、「腹積もり」や「腹案」という言葉が生まれ、相手の気...
日本人風雅考

長谷川等伯の「松林図屏風」

戦国時代の京戦国時代の京は、応仁の乱のあと荒廃がすすみ、人心もすさんでいる。京にいた文人墨客は地方に逃れ、山口の大内、越前の朝倉、能登の畠山などの有力大名を頼ったため、中央の文化が地方で花開くこととなった。かくして能登の七尾城下にも京風の「...
四季雑感

台風の目

台風はなにも最近になって来始めたわけではない。平安期の「扶桑略記」に台風襲来の記述があり、鎌倉期には博多に押し寄せた10万の元の大軍が、台風によって沈没している(弘安の役)。昔から、わが国は台風とは切っても切れない間柄である。悪意に満ちた台...
四季雑感

サッカーと私

姉が結婚すると聞いたとき、相手が会社員としか知らされなかったし、24,5なら結婚するのは当然だろうという程度の記憶しか残っていない。昭和45年ごろのことで、当時、自分は呑気な大学生だった。結婚式に出て、義兄が日本代表のサッカー選手で、しかも...
興味深い日本人

運慶のリアリズム

建仁3年(1,203年)は運慶にとって記念すべき年となった。東大寺南大門に巨大な金剛力士像が完成し、運慶は僧侶の最高位・法印に任ぜられたのである。 すでに治承4年(1,180年)、平重衡(清盛の子)が、ことあるごとに平氏に反抗的な奈良の仏教...
鎌倉時代

運慶のリアリズム

建仁3年(1203年)は運慶にとって記念すべき年となった。東大寺南大門に巨大な金剛力士像が完成し、運慶は僧侶の最高位・法印に任ぜられたのである。すでに治承4年(1180年)、平重衡(清盛の子)が、ことあるごとに平氏に反抗的な奈良の仏教徒に腹...
戦国時代

秀吉、家康が恐れた男・黒田官兵衛(如水)

関ヶ原の戦いのあと、帰国した黒田長政が、父・官兵衛に戦勝報告にやってきた。「この度の勝利はひとえに甲州殿(長政)のはたらきによるものである。この功に何事をもって報いるべきといって、家康殿は自分の手を3度もとって感謝してくれました」と、長政は...
戦国時代

細川幽斎の処世術

戦国期における細川幽斎の名は、戦国武将のあいだに特別な響きがあったとおもわれる。剣術、弓術の達人であるばかりか、和歌・茶道・連歌に精通し、鯉料理の達人にして囲碁や猿楽にも造詣が深い、人もうらやむ風流人である。幽斎は足利家一族の出身であり、将...
愛媛県展望

宇和島市紹介

「宇和島は世界有数の美しい町だと思う。四方に山があって、オーストリアのインスブルックを思わせる。段々畑になっている宇和島の山手はさらに美しく、そこから海も見える。港はフランス南部のサン・ジアンド・ルースに劣らず、絵のように美しい。」宇和島の...
愛媛県展望

大洲市紹介

大洲市は愛媛県の南にあって、肱川流域の大洲城を中心に発展した町です。風光明媚な盆地で、古い町並みが保存されているところから、しばしば「伊予の小京都」と呼ばれています。大化の改新以後、大洲は伊予国宇和郡に属していましたが、平安初期には独立して...
愛媛県展望

今治市紹介

今治市は県の東部、瀬戸内海に向かって突き出した高縄半島の先にできた港町で、タオルと造船が盛んな臨海工業都市です。特にタオルは全国一の生産高(60%以上)を誇り、造船も近世の帆船の時代から盛んに建造され、地元の海運業と結びついて、中小型船建造...
幕末

出島のオランダ商館長 ドゥーフ

江戸時代、わが国が西洋を覗き見ることができたのは、長崎出島のオランダのみである。孤立化を懸念する徳川吉宗は、1720年、殖産興業、国産化奨励のため禁書令を緩和し、キリスト教に無関係の書物の輸入を認め、西洋知識の導入に乗り出した。さらに田沼時...
幕末

アーネスト・サトウの見た日本

慶応2年(1866年)、横浜で発行されていた、週間英字新聞「ジャパン・タイムズ」に匿名で掲載されたある論説が、徳島藩士・沼田寅三郎によって翻訳され、「英国策論」と題して出版された。日本が国際社会に登場するためには、今の幕藩体制ではだめで、天...
幕末

カッテンディーケの見た日本

嘉永6(1853)年、ペリーの開国要求に驚愕した幕府は、あわてて交易国オランダに相談をもちかけた。これに対しオランダは、老中阿部正弘に、日本の地理的条件からして海軍をもつことが第一であり、洋式海軍の創設には尽力を惜しまないと返答した。長崎海...
日本人の宗教心

神をとるか仏をとるか

もともと我が国の神は自然崇拝から発したもので、八百万の神々が山川草木至る所、家のなかにもおられるという。古代人は神のおはしますところを掃き清めて祈りを捧げ、感謝や心の救済を願っていたとおもわれる。ところが7世紀にいたり、アマテラスを押しいた...
興味深い日本人

信長の視点

信長の魅力は、周りに惑わされず、何事も自分で決するという小気味よさにある。信玄や謙信が孫子の兵法を学ぶのを横目で見ながら、他人のやったことを見ても何の役にも立たぬ。目の前の問題に答えが用意されているわけではない。答えは俺が示してやるといわん...
幕末

長州 暴発す

明治維新に先立つこと5年、文久3年(1863年)の長州は大変である。前年には英国公使館に火をつけて大騒ぎをおこしたが、この年の5月には長州沖にいる外国船を突然砲撃し、こともあろうに長州一国で欧米4か国(米英仏蘭)を敵にまわした。力でもって攘...
江戸時代

杵築(きつき)藩家老・大原氏

別府から国東半島へむかって北へ30キロ走ったところに、杵築市はある。鎌倉時代、豊後の領主・大友氏の一族が八坂郷木付荘を統治し、地名の木付(きつき)をとって姓とし、築城した。それが木付城の始まりである。木付城の城主はその後、何度も入れ替わった...
日本人気質

職人気質(かたぎ)

身を労すること士農工商は紀元前から中国にあったが、江戸幕府が身分制を固定するのに好都合と考え、採用した。ただし本来、士は心を労する士大夫のはずだったが、徳川氏はこれを武士に置き換えた。儒教では士大夫は理想的な階級で、民衆のために心を砕くので...
興味深い日本人

井伊の赤備え

家康、武田旧臣を召し抱える武田の猛将、山県昌景が赤備えで天下に名をはせたが、武田家滅亡のあと、家康は武田家旧臣を多数召し抱えた。かつて家康自身、三方ヶ原で完膚なきまでに打ちのめされた思い出がある。その象徴ともいうべき赤備え軍団を手中にしたか...
江戸時代

井伊の赤備え

井伊直政と赤備え軍団武田の猛将、山県昌景が赤備えで天下に名をはせたが、武田家滅亡のあと、家康は武田家旧臣を多数召し抱えた。かつて家康自身、三方ヶ原で完膚なきまでに打ちのめされた思い出がある。その象徴ともいうべき赤備え軍団を手中にしたかったの...
興味深い日本人

異色の上皇 ”後白河上皇と後鳥羽上皇”

治天の君現役の天皇が次の天皇を意中のひとに継がせるため、早めに天皇を辞して上皇となり、若き天皇が育つまで後ろから操る傀儡政権の仕組みを、院政と呼ぶ。院とは上皇のこと。したがって院政をしいて権力を振るう上皇は「治天の君」と呼ばれた。最高権力者...
興味深い日本人

”鯨海酔侯” 山内容堂

土佐勤王党から実権を奪取文久2年、江戸に幽居する山内容堂は片腕と頼む吉田東洋が暗殺され、土佐勤王党のへの憎悪を募らせていた。もともと彼は、幕府のおかげで奇跡的な幸運を得て藩主となった経緯がある。幕府には人一倍恩義を感じていた。したがって時流...
title
sub-title
title
sub-title
title
sub-title
title
sub-title