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日本史ひとこま

巨大古墳の登場

日本人について

古代

巨大古墳の登場

2世紀後半、40年ほどつづいた倭国大乱のあと、結局誰も権力を掌握しきれず、権威の象徴として卑弥呼が選ばれた。 ただし彼女に任せたのは呪術による権威だけで、卑弥呼の邪馬台国が実権を握ったわけではない。象徴天皇のごとき地位にいる。 弥生時代と呼...
興味深い日本人

徳川慶喜の武士道

慶喜、15代将軍に 家茂の死から5ヶ月が経過した慶応2年12月、執拗に将軍職を固辞していた慶喜が第15代将軍職に就任した。 「死に体」と揶揄される幕府を立て直し、アメリカなど外国勢力の攻勢をいかに防ぐか、国内では薩長連合とのつばぜり合いをど...
幕末

徳川慶喜の武士道

家茂の死から5ヶ月が経過した慶応2年12月、執拗に将軍職を固辞していた慶喜が第15代将軍職に就任した。 「死に体」と揶揄される幕府を立て直し、アメリカなど外国勢力の攻勢をいかに防ぐか、国内では薩長連合とのつばぜり合いをどう納めるか、難問山積...
日本人の宗教心

弥勒菩薩半跏思惟像

広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像が国宝第1号に認定されたというだけで、当時からこの像がいかに魅力的な存在であったかが分かる。 仏像にしては珍しく、座位で右足先を左大腿に乗せ、右膝頭に右肘をついて物思いにふける半跏思惟像である。どちらかというと、人...
興味深い日本人

世阿弥の求めた“花”の美学

歌舞伎の坂田藤十郎がはまり役とはいえ、「曽根崎心中」のお初を演じて62年、ついに公演1,400回に達した。 カーテンコールで「山城屋っ!」の掛け声が飛ぶほどの好演だったという。 とはいえ齢83である。どこの世界にこの歳の老人が生娘を演じて当...
江戸時代

武士の給料

江戸時代、1万石以上の知行地をもつものを大名といい、それ以下の幕府直参を旗本、御家人といった。 旗本は200石以上、将軍へ御目見えできる者で、御家人はそれ以下の給与所得者である。旗本は知行地を治める能力があると認められ、知行取りと呼ばれた。...
興味深い日本人

大久保利通の東京遷都

大政奉還という奇手 慶応3年、徳川慶喜は大政奉還という奇手をうって、薩長の出鼻をくじいた。 倒幕の密勅を得て意気盛んな大久保、西郷は、猫だましを食らったように腰が砕け、武力行使ができなくなった。 欧米列強がわが国を虎視眈々と狙っている今、大...
興味深い日本人

家康の旗印

天台宗寛永寺と浄土宗増上寺 家康は江戸に幕府を開くにあたり、京都の朝廷に対抗して天台宗の大寺を建立しようと計画し、家光によって東叡山寛永寺が完成した。最も権威ある天台宗・比叡山延暦寺を意識してのことである。 家康自身は浄土宗であるから、これ...
江戸時代

厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)

家康は江戸に幕府を開くにあたり、京都の朝廷に対抗して天台宗の大寺を建立しようと計画し、家光によって東叡山寛永寺が完成した。 最も権威ある天台宗・比叡山延暦寺を意識してのことである。家康自身は浄土宗であるから、これを天台宗と同格に引き上げ、芝...
幕末

尊王攘夷

江戸時代、庶民にとって仰ぎ見るのは徳川将軍家であって、京にいる天皇ではない。 この時期、幕府には800万石の収入がありながら、朝廷は幕府からわずか3万石を付与されるだけで、生きながらえている状況である。天皇は京都御所で息をひそめており、庶民...
戦国時代

豪勇、佐々 成政(さっさ なりまさ)

これ以外生き延びる手はないという危機的状況でなければ、だれも真冬の北アルプスを横断するなどという、無謀な冒険はしないはずである。 ところが400年も前にその無謀に挑んだ男がいる。富山城主・佐々 成政である。 戦国期の動乱のなかで、成政は切羽...
興味深い日本人

瀬戸磁器の祖 加藤民吉

有田焼の祖  李参平 日本初の白磁を焼いたのは陶工、李参平である。秀吉の朝鮮出兵の捕虜として来日した。17世紀初頭、有田地区の泉山に白磁鉱を発見し、ここに窯を開いて人々から「陶祖」とあがめられ、有田焼の祖となった。 柿右衛門の濁手(にごしで...
明治

明治維新誕生の不思議

明治維新というクーデターが、頂点に明確な統率者をいだかないまま行われたというのは、どうにも奇妙な現象というほかない。 革命勢力の中心となった薩長の藩主、島津久光、毛利敬親はともに郷里にいて、部下のものから戦況を聞くだけである。 実働している...
日本人の宗教心

般若心経を唱える人々

釈迦が説いたもの その昔、釈迦は、人生は思いのままにならないことばかりであるとの結論に達し、この世は「一切皆苦」であると嘆息した。そしてその苦しみの根源は無明(煩悩)にあり、そのせいで12の不幸が連鎖的におこり、最後に老死という苦悩を迎える...
日本人気質

後の先(ごのせん)  

積極的防衛 後の先は剣術の護身に重きをおく戦術として発生した。 馬庭念流(まにわねんりゅう)という武術がある。 かつて戦国時代、上州の馬庭村(現群馬県高崎市馬庭)に住む兵法家、樋口定次が庶民の護身術として作り上げたもので、身を守ることに主眼...
興味深い日本人

天心の「茶の本」

岡倉天心とボストン美術館 今ならボストン直行便があるから問題ないが、100年前はそうはいかない。 西海岸のサンフランシスコやカルフォルニアとは比べられぬほど、ボストンは遠い。何日もかけてアメリカ大陸を横断しなければならない。いざボストンとな...
興味深い日本人

松陰の死生観

幽囚録 「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如く...
平安時代

藤原氏はどこへ行ったか?

藤原氏は大化の改新の立役者である中臣鎌足を始祖とする。 もともと中臣氏は代々、神事・祭祀を司る宮廷貴族であった。 中臣鎌足は死に望んで天智天皇より藤原姓を賜り、息子の不比等からは中臣氏でなく藤原氏を名乗るようになった。 ちなみに藤原の名は鎌...
鎌倉時代

8代執権 北条時宗の苦悩

我が国は直接大陸の利害が及ぶことのない孤島である。このためこちらから手をださなければ、容易に外から攻められることはない。 しかし、2度だけ手を出したことがある。一度目は天智天皇、2度目は太閤秀吉である。 663年、天智天皇は百済の要請に応じ...
昭和

エコロジーの提唱者・南方熊楠(みなかたくまぐす)

南方熊楠は、我が国でエコロジーを初めて唱えた人である。 エコロジーとは人間と自然とが共存していこうとする考え方で、「地球にやさしい生活」とか、「環境にやさしい生活」と言い換えることができる。 明治政府は国家神道の権威を高める為、神社合祀令を...
鎌倉時代

本願寺物語

もともと本願寺はお寺でなく、廟堂である。 1262年、親鸞は亡くなったあと、「大谷」の地に納骨され、のちに信徒が参詣するための廟堂が建てられて「大谷廟堂」と尊称された。 廟堂は親鸞の末娘・覚信尼の子孫が代々世襲、管理するようになり、3代あと...
鎌倉時代

異色の上皇 ”後白河上皇と後鳥羽上皇”

現役の天皇が次の天皇を意中のひとに継がせるため、早めに天皇を辞して上皇となり、若き天皇が育つまで後ろから操る傀儡政権の仕組みを、院政と呼ぶ。 院とは上皇のこと。したがって院政をしいて権力を振るう上皇は「治天の君」と呼ばれた。最高権力者の意で...
日本人気質

ぬるま湯農耕民族

農業国家 近年、日本人の半数が大都会へ流入し、田舎で農業をするものが激減した。その結果、食料自給率は40%を切り危機的状況を呈している。 しかしそれはこの数十年の異変であって、我が国は2000年間、水稲農耕で生きてきた正真正銘の農業国家であ...
日本人気質

日本の忠義

武士の心構え 忠義は鎌倉時代に生れた武士の心構えである。 古来、関東平野は貴族不在とはいえ、すでに彼らの所有地である。都の貴族は関東に住む豪族(農業主)に軍備を整えさせ、住民から徴税させて安穏としていた。 ところが関東平野はとりわけ、土地の...
日本人気質

苦肉の策“神仏習合”

神代の国 古来我が国は、八百万の神のまします神代の国であった。無論、神が目に見えるわけでなく、森羅万象に宿ると信じられてきた。 ところが6世紀、百済から朝廷に仏像が献上されると、朝廷はその扱いに戸惑うこととなった。なにしろいきなり、異国の神...
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